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2015年 08月 31日

トゥール・スレン虐殺博物館 その3

ウチも最近はすっかり暗黒ブログ化した感があるな。
しかしそれでも書くトゥール・スレン虐殺博物館展示内容。今日はまたさらに重苦しい話になる。


⑧看守たちの写真
トゥール・スレンにおいて収容者の拷問その他の実務にあたった看守たち。
ポル・ポト体制のキモチ悪さを象徴するように、看守たちはほとんど10代のコドモばかりだった。
以前に書いたように、子供の頃から洗脳教育された異常なコドモ革命闘士、コドモ看守たち。

コドモ看守の写真はたくさん残ってる。全員同じ帽子をかぶり、笑顔を見せている者もいる。
まだ幼さ丸出しの彼らが革命洗脳教育をうけ、拷問技能に関するスキルを訓練されたうえで
トゥール・スレンで働いてたわけだ。
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ポル・ポト体制下では学校も病院も全て閉鎖され、医者や教師はインテリだから殺された。
病院もなけりゃ医者もいないという状態で、たとえば農村地域で強制労働させられてる誰かが
病気になった場合どうしたのか?放置された?その方がよかったかもしれん。

そういう場合、コドモ看守と同じような急ごしらえの「コドモ医者」が医療行為にあたったらしい。
もちろんド素人だから病気なんて治せっこない。内容的には真似ごと、お医者ごっこのレベルだろう。
実際、家族が「注射されたとたんに死んだ」なんていうカンボジア難民の証言は少なくないのだ。
理不尽な強制労働のあげく空腹と疲労で病気になり、医療技術ゼロのコドモ医者にかかって死ぬなんて、
もはやグロテスクな悪夢そのもの。
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女性の看守もいた。こちらもみんな若い。
モノの本によると当時「ポル・ポト体制側女子」のヘアスタイルは横分け+首の後ろでざっくり切った髪型に
決まってたらしい。ここで一番左の列の、下から2番目に写ってるゴツい顔の女性を記憶しておいていただきたい。
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看守みたいな、ポル・ポト体制下における“体制側”の仕事に就いてた者って、クメール・ルージュが
政権をとる前からポル・ポト派の支配下にあった「解放区」の住民たちで、農村出身者が多い。

そういう体制側から見ればプノンペンみたいな都市部の連中は「革命思想が浸透してないクズ人間」だから
町から強制的に追い出し、強制労働させながら教育するのが当然という発想になる。その中に少しでも
反革命分子が混じれば悪い思想はすぐ広がる。そうなる前にアヤシそうなヤツは片っ端から施設に集め、
自白させ、殺す。彼らにとってはスジの通った革命思想だったんだと思われる。


⑨看守たちの回想(反省?)
そういう“体制側”にいて、多くの自国民を拷問し、殺した看守たち。
1979年1月のポル・ポト敗走後、一部ではそういう連中に対する復讐リンチもあったらしい。
でも全体としてはそういう例って少数で、多くの看守たちはその後もカンボジアで罪に問われることなく
多少の“再教育”を経ていまも普通に生活している。

戦争犯罪って通常は「A国(通常は戦勝国)の人間を殺したB国(通常は敗戦国)の人間」が
対象になる。裁判では「殺された国」のガワの裁判官なり検察官なりが「殺した国」の
軍人や政治家を裁く形になる。日本もドイツもそうだった。

しかしカンボジアの場合そうじゃない。自国民が自国民を殺してるから、仮に戦争犯罪で
裁くとしても、告発する相手は当然自国民だ。
ただでさえ人口の1/2だか1/3だかが殺されたっていうのに、さらに大量のカンボジア人を、
カンボジア人自身が戦犯として追求し、投獄し、場合によっては処刑できるだろうか?

ポル・ポト体制がカンボジアに残した大〜きな傷の一つがコレだと思うんだよイ課長は。
家族を殺された恨みを持つ人間と、殺した当事者である元看守とがその後も混じり合ったまま
一つの国の国民を形成し続けてる。イ課長には想像が難しい世界だ。

トゥール・スレンにはそういう「今もカンボジアで生活してる旧ポル・ポト体制側の人」のことも
展示されている。要するに当時のココの看守たちはいまどうしてて、何を思うか?というわけだ。

⑧で「一番左の列の下から2番目の女性をご記憶あれ」と書いた。
たまたまイ課長の写真に入ってたその女性が「看守のその後」の展示の対象になっていたんだよ。
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写真の感じだと今はカンボジアのどこかの農村でつましく暮らしているっぽい。
当時の恨みを持った連中に今でも狙われるとか、復讐が怖くてしょうがないってこと、ないんだろうか?

「看守のその後」に関する展示は他にもある。
この男性の場合「当時クメール・ルージュのために働いたことは後悔してない。罪を犯した者には
裁判がなされるべきだ」みたいな本人の回顧談が載ってる。彼が看守だった当時の写真を見ると、
まるっきり中学生くらいだ。
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しかし現在の彼が革命の名の元に死んだ何百万もの自国民に(その中の何人かは自分が殺してるかもしれない)
何を思うのか、この短い文章からは読み取れない。そして、これもまたイ課長には想像がつかない。


うーん・・書いてたらまた長くなってしまった。しかし最もキツい展示はまだあるのだ。
さらにトゥール・スレンの記事は続くのである。

 
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by tohoiwanya | 2015-08-31 00:08 | 2014.09 東南アジア旅行 | Comments(0)
2015年 08月 28日

トゥール・スレン虐殺博物館 その2

「気分が暗くなる度合い」の少ないものから書いていってるトゥール・スレン虐殺博物館。
展示内容のダーク度はだんだん高くなる。覚悟して読み続けてほしい。

④ハリと瓶
建物の上から“校庭”を見渡すとこんなものがあった。
あー、こういうのはアウシュビッツでも見たよ。吊るし首用のハリだろう?
地面にある水瓶は何だかわかんないけど、これはただ水をためておくものだろうと思った。
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だが実態はちょっと違ったようだ。これは「後ろ手吊るし」と「水責め」の拷問設備だったんだな。
それは下の絵を見るとわかる。
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後ろ手吊るしって昔からよく使われる拷問で、自分の体重で肩がはずれることが多いとされる。
そもそもこの高いハリも、高校の体操の吊り輪練習用にあったものらしいのだ。学校にあった設備が
こういう用途に“有効利用”されてたわけ。


⑤お墓
旧校庭、いまは博物館の中庭にはこんな感じの白いお墓がいくつも並んでいる。
ここで殺された人のお墓・・・にしては数が少なすぎないか?
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1979年にベトナム軍(+反ポル・ポトのカンボジア勢力)がプノンペンに進軍した時、
ポル・ポト派はロクな抵抗もせず、西のタイ国境山岳地帯に敗走した。ベトナム軍は市街戦を
することなくプノンペンを、いわばまぁ「無血解放」できたことになる。

で、このトゥール・スレンに来てみたベトナム軍はキモを潰した(んじゃないかと思う)。
ポル・ポト派はこの施設も「そのまま」の状態で逃げちゃったわけで、そこには無惨に放置された
死体も残っていた。

そういう放置死体を埋めたのがこの白い墓ということらしい。遺体は14人くらいあったとか。
下の写真は79年1月に解放された時に生き残っていた子供、と書かれているね。
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⑥拷問グッズ
反革命分子を尋問し、強制自白させ、殺すことが目的の施設だったわけだから、尋問に際しての拷問は
当然のように行われた。この辺はワルシャワの旧ゲシュタポ本部と同じで、こういう施設はいつの時代の
どこの国でも同じようなものになるんだろう。
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当時の拷問の様子が絵で(生き残りの収容者が描いたと思われる)展示されてる。絵の破損が激しくて
イマイチよくわからないが、拷問にはいろんな方法があったようだ。
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・・と思ってたら、上の写真の一番下の絵で使われてた拷問グッズの実物もある。
一種の水責めみたいなもので、人ひとり沈めるわけだから実物はけっこうデカい。
うううーー・・だんだん気分が重苦しくなってきたぞ。
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⑦独房
トゥール・スレンには収容者をブチ込んだ独房もそのまま残っている。前に見た大部屋が一般収容者用とすれば
こっちは何らかの理由でもっと苦しめる必要がある「要処罰収容者用」だったんだと思われる。

これがさー・・レンガ造りなんだけど、とにかくやたら雑に作ってあるんだよね。
見た目なんて悪くていいからとにかく急ごしらえで作ったってのが明らかだ。そういう独房が
学校らしいキレイなタイル貼りの床の上にあるわけで、その「マッチしてなさ」が気持ち悪い。
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独房は恐ろしく狭い。このクサリは足かせだったと思われる。ベッドもイスもテーブルもなくて
寝たければ床にゴロ寝。ちなみに、トイレもこの中でシたそうで、ソレ用の小さな箱一つを
渡されただけでブチ込まれたらしい。
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木製の独房もある。これはイ課長の想像だけど、最初はレンガで作ってたんだけど、コストと時間が
かかるから木にしたんじゃないかなぁ?東南アジアなら木の方が材料費も安いはずだ。
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自国民を殺すにあたってクメール・ルージュがものすごくケチだったっていうのは有名な話で、
銃殺なんてしない(タマ代がもったいない)。棍棒とか刃物とか、赤ん坊は木に叩き付けるとか、
コストのかからない殺し方をしたと言われている。相手は空腹と拷問で半死半生の状態だから
棍棒でも“効率よく”殺せたらしい。木造の独房っていうのも低コスト化のためじゃないのかなぁ?


かなり気分が暗くなってきた?しかしこんなもんじゃないのだ、トゥール・スレンは。
次回はさらに暗くなるけど、イ課長は書くのである。

 
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by tohoiwanya | 2015-08-28 00:06 | 2014.09 東南アジア旅行 | Comments(2)
2015年 08月 26日

トゥール・スレン虐殺博物館 その1

それでは始めよう。トゥール・スレン虐殺博物館。

以前にこのブログでダークツーリズムについて書いたとき、アウシュビッツ以外の代表的な
ダークツーリズムの例としてカンボジアのトゥール・スレンや南京大虐殺紀念館について触れた。
あれを書いたのが2013年の10月。それからわずか1年後の2014年9月にまさか自分が本当に
トゥール・スレンに行くことになるたぁ、お釈迦様もイ課長も気が付かなかったねー。

そもそも最初はトゥール・スレンがカンボジアのドコにあるのかも知らなかったんだから。
何となくアウシュビッツと同じように人里離れたところにあるんだろうって先入観があったけど
実はプノンペン市内の便利な場所にあって、元々は高校の校舎だったんだと。

入口はこんな感じ。入場料は2ドルくらいだったと思う。米ドルね。
地元の中学生たちがゾロゾロ見学なんていう感じは全然なくて、来場者はほとんど全員が
海外から来た旅行者のようだ。ただし日本人らしき人は見かけなかったなぁ。
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建物の感じは日本人から見ても確かに学校の校舎っぽい構造になってると思う。
建物の両端に階段があり、各階の教室はベランダ兼用の廊下でつながってる。イ課長がむかし通った
中学校も同じような構造だったよ。内廊下がないんだよね。
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しかしここがポル・ポト時代なにに使われてたか知ってる見学者としては、建物が学校っぽいがゆえに
逆に不気味な気分になる。ごく普通の学校が自国民拷問・虐殺の一大拠点として使われたという事実。
階段の踊り場の床にはこんなシミがあるけど、これ、もしかすると血の跡か?トゥール・スレンには
床に血痕が残ってるなんて場所がけっこうあるらしいんだけど、ここかなぁ?ううう・・・
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トゥール・スレンの展示内容をご紹介するにあたっては「見た順」ではなく「ダーク度」を指標に書こう。
「気分がダークになった度合いの」軽→重という流れで書いていきたい。その方が読み手も少しずつ
“耐性”ができていくような気がするからね。まずは穏やかなところから。


①関連図書資料展示
教室の一つは関連図書を集めて自由にお読みくださいって感じの部屋になってる。
欧米人旅行者が何人もジックリ読んでた。欧米人が多いってことは英文図書が多いはずで、
イ課長は特に何か読んでみるってことはしなかったけど、こんな風に机とイスが並んでるのを見ると
改めて「ここはもと学校だったんだなぁ」って感じる。
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②大部屋
ここでは共産主義革命の内部攪乱を図る反革命分子を片っ端からしょっぴき、尋問し、拷問し、殺した。
そういう意味じゃワルシャワ旧ゲシュタポ本部に似た性格を持ってるんだけど、収容していた
人数も相当多かったようで、収容所的な側面もある。これが教室を使った大部屋収容施設。
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番号のあるところが「一人分の就寝スペース」ってことらしいから、ほとんど体をくっつけるようにして
寝てたわけだ。冷房はないから夏は暑かったはずで、隣りのヤツの体は汗でベトベト・・なんてことを
気にしてられないくらい、ここの衛生状態はそもそも最悪だったらしいけどね。
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当時の様子を描いた絵(反射で見づらいが)。床にすごい密度で収容者が寝かされてる。
耐え難い居住環境だ。もっとも、逮捕⇒尋問&拷問⇒粛清(殺害)というここのシステムを考えれば
一人の収容者が1年も2年もここで暮らすということはあまりなくて、収容期間は数か月程度ってのが
多かったなんて話も読んだ。
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③収容者心得
歩いていくとこんな英語の看板があった。最初は「飲食禁止」みたいに見学者向けの注意事項でも
書いてあるのかと思ったけど、乏しい英語力で読んでみると、これは当時の収容者たちに対して
体制側(要するにポル・ポト派)が要求した一種の“収容者心得”だってことがわかってくる。
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1.質問にはちゃんと答えなければならない。質問をそらしてはならない。
2.口実を設けて事実を隠してはならない。お前が抵抗することは厳しく禁じられている。
3.お前は革命を阻害する愚か者であってはならない。
4.お前は質問に対して時間を無駄にすることなくただちに答えなければならない。

(中略。英語が得意な方、訳してください)
10.いかなる規則違反があった場合でも10回の鞭打ちか5回の電気ショックをうけることになる。

十分予想されることだけど、実際ここに収容された人のほとんど、つうかほぼ100%近くは
反革命分子でもスパイでも何でもないフツーの人。そういう人たちが拷問の苦痛に耐えかねて
「自分はスパイですぅ」という自白を強要され、仲間(親戚や友人)は誰かを吐かさせられる。
そこで名前の出た仲間(親戚や友人)もまたここにしょっぴかれ、拷問され、自白を強要され、
仲間の名前を言わされ・・というイモづる式のサイクルが延々と繰り返されたわけだ。

「私、スパイですぅ」なんて自白すれば、自分が処刑されるってことは十分わかっている。
しかし仮にテコでも自白しなければ、延々と拷問また拷問が続き、拷問の果ての拷問死が待っている。
どっちみち自分は殺されるという状況の中で「少しでも長く生きて長く拷問され続ける」か
「早くウソ自白して早く死ぬ」か・・収容者たちはそういう選択を迫られたことになる。


トゥール・スレン虐殺博物館。この程度の“ダークさ加減”はまだ序の口なんだけど、
続きは次回だ。まだまだあるぞ。

 
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by tohoiwanya | 2015-08-26 00:08 | 2014.09 東南アジア旅行 | Comments(0)
2015年 08月 24日

ダーク・ツーリズムに向けた予習 その2

モノの本によると、ポル・ポトを中心としたクメール・ルージュのボスたちっていうのは
別に血に飢えたサディスト集団ってわけじゃなく、フランス留学経験のあるエリートばかりで
一応カンボジア型共産主義建設(革命)の理想に燃えてたんだと思われる。
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しかしその理想は普通に考えれば完全なビョーキ。彼らの異常なまでの「既存体制破壊」の執念には
驚きを通り越してゾッとする。都市住民は全員強制疎開&強制労働、都市部の学校も病院も全部閉鎖。
私財は没収、通貨は廃止、宗教なんかも当然廃止だ。都市住民の大人たちを農村で強制労働させる一方で
子供たちを集めて革命洗脳教育をほどこし、異常なコドモ革命戦士を大量育成して手先として働かせた。
カンボジアじゃ夫婦や親子なんて家族関係は事実上消滅しちまった。ついでに戸籍も廃止ときた。

そしてご存知のように、反革命的と言いがかりをつけては自国民をとにかく片っ端から殺しまくった。
医者とか教師とかエンジニアとかのインテリは反革命分子になりそうだから殺す。メガネかけてるヤツは
インテリっぽいから殺す。フランス留学中のエリート連中はインテリの最たるものだから「カンボジアに戻って
祖国再建に力を貸してほしい」と声をかけ、呼び寄せ、殺す。

ここに彼らのビョーキぶりが見てとれるとイ課長は思う。フランス留学したカンボジアのエリートって、まさに
自分たちじゃん!ポル・ポト派の連中は「かつての自分たち」を反革命分子として危険視し、殺したことになる。
こうなるともう完全な被害妄想。もちろん殺したのはエリートだけじゃない。地方で強制労働させてるヤツらが
ちょっとでもサボッたり不平を言えばソク殺す。
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人口約600万人のうち200万人くらいが殺されたなんて話もあるけど、このくらいの規模になると
アウシュビッツと同じで正確な人数なんてわかんないし、聞いてもその規模をイメージできない。

この大虐殺。思想背景的には中国の文化大革命とか毛沢東思想の悪しき影響が強かったようで、それはそうなんだと思う。
ただ、ポル・ポト派幹部の当時の発言(もちろん伝聞だが)を読むと、実際問題として単純に「養うべき国民の数を
減らしたかった」っていう側面もあるんじゃないかって気がするんだよなぁ。

イ課長がバスで越えたあのタイ国境は命からがら逃げてきたカンボジア難民が押し寄せた場所なんだよ。
あのバスで途中弁当を積んだタイ側の国境の町アランヤプラテートは当時世界中からジャーナリストや
ボランティアや人権活動家が押し寄せ、パンク寸前だったらしい。

しかしイ課長が注目するのはむしろここから先の展開。
これだけメチャクチャなポル・ポト体制、いったいどうやって倒れたのか?カンボジア人民の反乱?

実はベトナムのカンボジア侵攻のおかげなんだよね。ポル・ポト派はだんだん「ベトナムは敵だ」って被害妄想も
強めたようで、ポル・ポト軍がベトナム領内の村を襲撃・虐殺するなんていうことも増えてきたらしい。
カンボジアからベトナムに逃げて来た難民から隣国で何が起きてるかの情報も入ってくるわけだから
「ポル・ポトってどうもマジキチみたいだし、早めにツブしといた方が・・」という思いが
ベトナム側にあったことは十分想像できる。

で、ベトナム軍は「反ポル・ポト」のカンボジア武装勢力と一緒に1978年暮れにカンボジアに侵攻し、
翌年1月、アッという間にプノンペンを制圧した。当時のベトナム軍は戦争慣れしてたからねぇ。
プノンペンには親ベトナム派のヘン・サムリン政権が設立され、ポル・ポトはタイ国境の山岳地帯に敗走。
山奥にこもってヘン・サムリン政府に対してゲリラ戦を続けることになる(=カンボジア内戦)。
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(上のモノクロ写真3点の出所は ://diogenesii.wordpress.com/ ただしココ自体がたぶん
 2次使用じゃないかとは思うが) 

こうして見れば、今度はどちらかといえば「ポル・ポトをやっつけたベトナム側の方に正義はある」と思える。
ベトナム軍侵攻がなければポル・ポト支配がもっと続いてたのは確実。ベトナムは残虐なポル・ポト支配から
カンボジアをとりあえず解放してあげたことになる。

ところが世界はそうは見なさなかった。
当時ソ連寄りだったベトナムがカンボジアに侵攻したのを中国や米国やタイは良く思わなかったんだな。
「弱いカンボジアを侵略した悪いヤツ・ベトナム」として孤立させようとした。ヘン・サムリン政権なんて
ベトナムの傀儡だから認めない、で、あろうことかポル・ポト政権こそカンボジアの正当な政府なんだと主張した。
ソ連の息がかかったベトナムの、そのまた息がかかったカンボジア政府を世界は認めなかったのだ。

結果的に国連の議席は何とポル・ポト政権に与えられ、日本政府もそれに同調した。つまりだよ?
何百万の自国民を殺したキチガイ政権を「正当なその国の政権」として日本を含む世界の多くは承認し続けたのだ。
そんなこともイ課長は今回初めて知ったよ。「歴史を直視しろ」とか言ってる世界中の為政者の皆様方には
「自国民を何百万も殺したポル・ポト政権こそ正当な政府」と認めたご自分たちの歴史もぜひ直視してほしいもんだ。
(当時は虐殺情報に対して大半の国が半信半疑だったのだ、みたいな言い訳が用意されてるんだろうけどさ)

この時期の報道ではカンボジアに軍を進めたベトナムが悪者にされてたのは確かで、イ課長もベトナムが
カンボジアを実質的支配下に置いているというニュースを見て「迫害されたユダヤ人が今度はパレスチナ人を
迫害してるみたい・・」みたいな印象を持ったもんだった。

一方ベトナムは自国のカンボジア侵攻を正当化したいって思いがあったから、ポル・ポト時代にカンボジアで
何があったかを世界に訴えた。それがあまりにも残虐すぎて信じ難いから、最初は誰もが「まさかぁ・・」と
思った(んだと思う)けど、今となってはポル・ポト派による自国民大虐殺の事実を疑う者はいない。

タイ国境地帯に隠れたポル・ポト派とヘン・サムリン政権(+ベトナム)によるカンボジア内戦は
その後も1991年頃まで続き、ポル・ポト自身は1998年に心臓発作で死亡した(毒殺説もあり)。
ポル・ポト派の残党も今や消滅したんだと思う。しかしポル・ポト支配の4年間がこの国に与えた
ダメージはあまりにも深い。カンボジアの人口ピラミッドがこんなに歪んでるってこと自体、
この国でかつてあったことがいかに異常なことだったかを物語る。
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プノンペンではトゥール・スレンにぜひ行こうと思っていたイ課長は以上のようなことを
日本で予習してからカンボジアに行き、トゥール・スレンを見学したわけだ。

イ課長にとっては2012年ポーランド以来のダーク・ツーリズム、トゥール・スレン虐殺博物館見学。
次回から始めさせていただきます。ええ、もちろん続きものになるはずですよ、ええ。

 
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by tohoiwanya | 2015-08-24 00:07 | 2014.09 東南アジア旅行 | Comments(0)
2015年 08月 21日

ダーク・ツーリズムに向けた予習

さて、それではプノンペンに話を戻そう。

プノンペンのトゥール・スレンのことを書き始めようと思っている。
トゥール・スレンって、ポル・ポト支配の時代に反革命分子を収容し、拷問し、殺した施設で、
現在は「トゥール・スレン虐殺博物館」(Tuol Sleng Genocide Museum)という名称になってる。
当時は「S21」と呼ばれてた。これは地名や施設名っつうより“機関”の名称なんだろう。
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プノンペンに行くまでイ課長がポル・ポトについて知ってたことなんて「カンボジアの独裁者で、
大量虐殺の首謀者」ってことくらい。どういう経緯で彼が権力を握り、何を理由に自国民を大虐殺したかも
実はロクに知らなかった。

こんなことではいかん。プノンペンに行ったら久しぶりのダーク・ツーリズムでトゥール・スレンに
行くつもりだってのに、ポル・ポト大虐殺の経緯・背景なんかを全然知らねぇじゃねぇか、自分は。

そこで、図書館で本を借りたりしてドロナワで予習した。予習してみるとイ課長が中学生くらいの頃に
「ニュースで名前だけは聞いた記憶があるなぁ」っていう人名がけっこう出て来るんだよね。

カンボジアにおける大虐殺の背景にはベトナム戦争があり、さらに米中ソの思惑も絡むから
非常に複雑だ。しかしトゥール・スレンの話を書く前にちょっと整理しておきたい。

ベトナム戦争から始めよう。
1970年頃。ベトナム戦争のドロ沼にはまっていた米軍は北爆で北ベトナムを叩きつつ、
南ベトナム領内にいる民族解放戦線、俗にいう「ベトコン」も殲滅する必要があった。
北ベトナム政府は隣国のラオスやカンボジアを迂回して南とつながる補給線(ホーチミン・ルート)を
持ってて、これがある限りベトコンはいつまでも持ちこたえる。だから米軍としてはラオスや
カンボジア領内に侵攻してホーチミン・ルートをブッ潰したかったわけだ。

当時カンボジアの元首はシアヌーク。この人の名前は聞いたことがある人が多いだろう。
シアヌークは当初中立政策をとって自国をベトナム戦争に巻き込ませまいとし、その後は
反米色を強めて米国と断交までした。しかし彼の国内政権基盤は強固とはいえず、反シアヌークを唱える
右派だ左派だってのが勢いづいてた。カンボジアもけっこう混乱してたわけだ。

そんな折、シアヌークが外国訪問中にとうとうクーデターが起きた。
首謀者はロン・ノル将軍っていう人で、完全な親米派。シアヌークは自国に戻ることもできなくなり
中国に仮住まいすることになる。米国はおおっぴらにカンボジア内に侵攻し、ホーチミン・ルートを
ドカスカ攻撃してはみたけど、悪化した戦局を好転させるほどのインパクトはなかったらしい。
「ろんのる将軍」って当時のニュースでよく聞いたよ(下がロンノル、出典Wikipedia)。
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米国べったりのロン・ノル政権に対し(実際、彼は後に米国に逃げてそこで死ぬ)「反ノン・ノル」を掲げて
戦う連中も出る。その中心勢力がクメール・ルージュ(赤いクメール)、つまりポル・ポトらが率いる
共産主義勢力だったわけだ。ロン・ノルのクーデターで国を追われたシアヌークはクメール・ルージュと
こんどは「反ロン・ノル」で手を結ぶ。

重要なのは、この時点ではどちらかというと「正義はクメール・ルージュにあるかな」と思えることだ。
ロン・ノル政権はほぼ米国の傀儡。それを倒すために戦うクメール・ルージュは米国傀儡政権から
カンボジアを取り戻す正義の勢力・・と思いたくなる。しかも国民に人気の高いシアヌーク国王と
共闘してるわけだからね。だが後から考えればこの時シアヌークは悪魔と握手していたことになる。

クメール・ルージュって共産主義なわけじゃん?共産主義者が王様と共闘するってこと自体、
異常な組み合わせだ。シアヌークは結局のところクメール・ルージュに利用されたにすぎず、後に
プノンペンの王宮に幽閉されることになる(下がシアヌーク、出典は同じくWikipedia)。
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さて。いよいよベトナム戦争で敗色濃厚となった米国はスタコラ撤退。そうなると南ベトナム政府軍は
たちまちヘナヘナになり、1975年4月30日にサイゴンは北ベトナム軍によって陥落することになる。
世界の注目は「サイゴン陥落・ベトナム戦争終結」に集まってたし、その時のことはイ課長も
ニュースや新聞で見て覚えてる。しかしだ・・・

実はその2週間ほど前、1975年の4月17日にプノンペンはクメール・ルージュによって陥落してたのだ。
クメール・ルージュの兵がプノンペンの街に入ってきた時、市民たちは一応歓迎したらしい。
「米国傀儡政権からカンボジアを解放」っていうイメージを市民たちも多少は持ってたんだと思う。
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問題はここからだ。プノンペンを制圧したクメール・ルージュはその日のうちにプノンペン市民を町から
追い出し始めた。「米軍の空襲がある」とかウソついて地方に強制疎開させたのだ。しかも徒歩で。
4〜5月って東南アジアが一番暑い季節だ。この時期、長距離をひたすら歩いて強制疎開させられ、途中で
身体の弱い老人や子供や病人などがバタバタと死に始める。
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住民が追い出されたプノンペンはカラッポだ。本当にカラッポになるまで完全に住民を追い出した。
誰もいなくなってゴーストタウン化したプノンペンの映像が世界に報道されたのはずっと後だったけど
テレビであれを見たときはちょっと信じ難かったよなぁ。
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でも、プノンペンでそんな陰惨な事態が起きてることを世界が広く知ったのはずっと後の話。
さっきも言ったように1975年4月下旬の世界中の注目は「いよいよサイゴン陥落間近」なわけで、
カンボジアがどうなってるかという情報はほとんどなかった。サイゴンの2週間前に実はプノンペンが
陥落してたってことも今回の予習によってイ課長は初めて知ったのだ。
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多くのカンボジア人はこのあと4年近くにわたって真の地獄を経験することになる。
というか、それだけの地獄期間を経験して生き延びた人はある意味幸運だったわけで、多くの人は
途中で殺されたから地獄経験期間はもっと短かったことになるが・・

しかし長くなったから次回に続く。予習だけで続き物っていうんだから先が思いやられるけど、
これについては書いておきたいのだ。
(ちなみに、出典説明のない写真はイ課長がトゥール・スレンで撮ってきた展示写真です)

 
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by tohoiwanya | 2015-08-21 00:12 | 2014.09 東南アジア旅行 | Comments(4)
2015年 08月 19日

海外渡航にはキケンが伴う

バンコク中心街で爆弾テロ発生。

中心街ってどこだろ?バンコク市街地だったらイ課長が行ったことある場所っていう
可能性もあると思ったけど、ニュースを読んで驚いた。

あのエラワン廟かよ!(下の写真はロイターのもの)
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エラワン廟つうたら確かにド中心街だ。イ課長も行ったことある。
しかしあれって一応宗教施設だろ?宗教施設で爆弾テロってヒドい。

去年の9月の旅行でも滞在最終日にエラワン廟に立ち寄った。
スカイトレインの駅もすぐだし、この辺には巨大ショッピングモールがたくさんあるから、
最後に土産物を買い物した時にフラッと寄ってみたのだ。
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バンコクじゃ「願いがかなうエラワン廟」っつうんで大人気で、いつ行っても人が絶えない。
願いがかなった人はお礼参りに来て、舞踊を奉納?したりするんだよね。ここのタイ舞踊の
ダンサーを以前美女図鑑でご紹介したこともある。

そんな、バンコク屈指のパワースポットと評判の場所で爆弾テロに遭うなんて・・・
願い事しに来た参列者はもちろん、供物の花を売るおばちゃんたちも犠牲になったはずだ。
ご冥福をお祈りするなんて言われても、理不尽すぎて本人たちは死にきれないよなぁ。
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海外旅行に行けば誰でも行き先の安全や治安を気にする。

一番“身近”なのはやっぱスリやカッパライ、強盗、旅行者狙いのサギといった「犯罪系」か。
しかしいくら「この国は治安がいい」って言っても、犯罪系リスクゼロの国なんて存在しないわけで、
結局旅行者本人が気を付けるしかない。ただ、犯罪系の唯一の救いはこの「本人の注意」が
実際にリスク対策としてかなり有効であるという点だ。

しかし今回みたいな爆弾とか銃撃だなんていう「テロ系」になると旅行者は注意しようがない。
まぁ「テロ確率の高そうな国」を避けるといった本人のリスク回避努力も多少は有効だけど、
今回のエラワン廟のテロなんて事実上確率と運に支配されてると言っていい。行ったこと
ある場所だけに、イ課長が巻き込まれてても何の不思議もなかったよなぁと思うワケよ。

海外旅行のキケンでもう一つ重要なのが「事故系」だ。典型的なのが飛行機事故。
これまた旅行者本人はほぼ完全に無力。確率と運のみに支配された世界。旅行者の努力で
飛行機事故リスクを低減させたければ旅行をやめろってことになっちまう。

バンコクの、よく知ってる場所で爆弾テロと聞いて、海外でのキケンというものについて
いろいろ考えて、ついこんな記事を書いてしまいました。

バンコクの爆発で重傷を負った日本人男性、帰宅途中に偶然通りかかっただけなんでしょ?
彼には油断も落ち度も不注意も全くなかった。まさに天から降ってきた災難だ。
重症だけどなんとか容態は安定してきたようで、とにかく一日も早い回復を祈りたい。
 
結局のところ、自分で気をつけることで防げるキケンなんてけっこう限られてる。
「テロ系」や「事故系」となると、ある意味運を天に任せて行くしかないわけだけど、
そうやって9月にまたイ課長も海外に行くのである。無事に帰ってこられるだろうか・・

 
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by tohoiwanya | 2015-08-19 00:17 | 出張・旅行あれこれ | Comments(6)
2015年 08月 17日

D坂の勘違い事件

このあともプノンペンの話が続くわけだけど、ここらでちょっと箸休め。
去年もお盆に墓参りの話を書いたから今年も書こうと思うのである。

今年の東京はあまりに暑いので、高齢の母や叔母には体力的負担が大きい。というわけで、
お盆の墓参りはイ課長一人が代表して行くことになったのである。一人でお墓参りに行くことって
過去にあんまりなかった。

行ってみてちょっと驚いたねー。
今や谷中霊園も外国人観光客の観光スポットなんだよ。まぁさすがに墓地じゃ爆買いは
できないから中国人は見かけなかったけど、家族連れの欧米系外国人なんかがけっこういた。

日本人の墓参ラーが多いのは知ってたけど、外国人観光客とは・・。
イ課長は死んだら観光地に葬られることになるのか・・まぁ賑やかな墓というのも悪くないよな。
みなさんも観光しに来てね(笑)。

今回は一人だったから墓参りのあと谷中銀座に足を伸ばしてみた。
ご存知のようにここも今やすっかり観光地で、夕焼けだんだんはお盆休み中も大変なにぎわい。
もちろん、ここでも外国人観光客の姿は少なくない。
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よく知らないんだけど、ここって猫が多い町としても有名みたいだね。
個々の家で飼ってるというより「地域ネコ」的に、町で世話をしてるらしい。だから
歓迎の垂れ幕もネコなのである。
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ネコ雑貨店もある。ネコ雑貨って何なのだ?猫砂とか売ってんのか?
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谷中銀座は昔ながらの店が多いことが下町名所たるゆえん。
いまや「おせんべい屋さん」なんて東京じゃめったに見かけなくなったもんねぇ。
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こちらは焼きかりんとう屋さん、その向こうがパン屋さん。
こういう具合に小さな専門店が並ぶたたずまいって昔の商店街じゃ当たり前だったよなぁ。
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イ課長が生まれ育った東京・板橋区の家の前の道路も谷中銀座ほどじゃないけど、
ショボい商店街になってて、八百屋、豆腐屋、薬屋、菓子屋、米屋、酒屋・・みたいに
小さな専門店が軒を連ねてた。だからこういうところは本能的に懐かしさを感じちゃうよ。

谷中銀座の場合は観光地として有名になっちゃったから、薬屋とか米屋みたいな生活系店舗は
少なくなって、その代わりに喫茶店その他の飲食系、さらに雑貨系のお店が増えてる様子だ。
だんだんと観光客向け店舗構成に変わっていってるんだろうな。
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谷中銀座の後は、再度霊園をつっきって、反対側の出口からだらだら坂を降りる。
さっきの夕焼けだんだんもそうだけど、日暮里から西側に向かっては土地が下ってるんだね。
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で、坂を下りきるとそこが千代田線・千駄木駅。
こんな風に浴衣姿のお嬢さんが歩いているあたりはいかにも谷根千らしい風情だ。
(谷根千(やねせん)=谷中・根津・千駄木エリアを指してこう言うらしい)
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この千駄木駅からさらに向こうはまた上り坂になってて、そこが団子坂。
実は今回、この団子坂のことをネットで調べてたイ課長はびっくり仰天した。
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江戸川乱歩の名作「D坂の殺人事件」。イ課長は中学生の時に読んだ。
ヨワイ50を過ぎた現在まで、D坂っていうのは渋谷の道玄坂のことだと信じ込んでたけど
実はこの団子坂のことだったんだと!!

こりゃ個人的には大びっくりだよ。
こっちは「大正時代の道玄坂」を想像し、明智小五郎は渋谷近辺に住んでたのか・・と思いながら
読んでたわけだからね。大正時代だって道玄坂と団子坂じゃ街の様子はだいぶ違ったはずで、
あの小説から想像してたイメージまで修正を迫られる。イ課長にとってはホームズの住居が
ベーカー街であることより、明智の住居が渋谷か千駄木か、の方がどちらかというと重要なのだ。

ある作家が乱歩の原作を現代風にアレンジした「新・D坂の殺人事件」って短編を発表してるらしい。
そこでも舞台は道玄坂になってるんだって。その小説家もまたD坂=道玄坂と思い込んでたんだな。
イ課長も今回、四十数年の時を経て自分の長〜〜い勘違いに気付かされた。

墓参りに来るときは母や叔母と一緒ってことが多い。高齢婦人が一緒だと勝手気ままに近所を
散策というわけにもいかないけど、今度ひとりで墓参に来たら、また千駄木まで坂道を下って、
そのまま団子坂をのぼってみてもいいなぁ・・。

汗びっしょりになってそんなことを考えた、真夏の墓参りなのでありました。

 
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by tohoiwanya | 2015-08-17 00:12 | 日本での私生活 | Comments(2)
2015年 08月 15日

トゥクトゥク野郎・ルイ その4

さて翌日。早めにホテルをチェックアウトし、玄関ワキのテラスみたいなところで一服しながら
ルイが来るのを待ってたら、ヤツはまた時間よりちょっと早めに来た。
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「グッモーニン」
朝の挨拶を交わし、朝の握手。いっぱしのダチ公気分である。
まだ時間はあるからルイに椅子を勧め、よもやま話をした。

「お前は日本のドコに住んでるんだい?」
「東京」
「トーキョーかぁ・・ビッグシティだよなぁ、お前のファミリーは?」
「妻がひとり、子供はいません。あなたのファミリーは?」
「カミさんと息子が二人さ。見るかい?」そう言ってスマホで家族の写真を見せてくれる。
「おおかわいい息子たち。あなたは何才ですか?」
「オレ?35歳さ」

げげげ。こりゃ驚いた。(去年だと)逆算すると1979年生まれってことかい?
1979年っつうたらベトナム軍がカンボジアに侵攻してポル・ポトを敗走させた年じゃん。
その後もポル・ポトはタイ国境にこもってさらに内戦は続くわけだが・・その年に生まれたのかよ。

彼のご両親は結婚・出産適齢期の頃にちょうどポル・ポト恐怖支配の下で暮らしてたんだ。
プノンペンを追い出され、農村で強制労働を強いられたなんて経験をしているかもしれない。
ルイにしたって子供の頃はずーっと内戦が続いてたわけで、彼が中学生くらいの時にようやく
カンボジア内戦が終了したことになる。うーーむ・・。

まぁあんまり暗い話をほじくるのはやめとこう。そろそろ時間だ。空港行こうぜ。
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空港まではけっこう広い通りがずーーっと続いてて、交通量も多い。
その中を真っ赤なフェラーリ号がノロノロと進む(笑)。車はもちろんだけど、普通のバイクにも
どんどん追い抜かれる。重い客車+イ課長+イ課長の荷物を引っ張ってるんだからしょうがないのだ。
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トゥクトゥクだから当然冷房はないし、道路のホコリや排気ガスを避ける方法もない。
まぁイ課長はなんとかガマンできるよ。どうせ空港行くまでなんだから。しかし一日中
この状態が続く運転手にとっちゃ、キツい仕事だよなー。
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道路はけっこう渋滞してて、30分くらい走ったかなぁ?やっと空港に着いた。
それなりに立派な国際空港だし、トゥクトゥクなんかが乗り入れられるんだろうかと思ったけど、
ちゃんとトゥクトゥク専用入口みたいなのがあって、ターミナルビルの前までつけてくれた。
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今やすっかり友達気分になったルイとイ課長。最後に空港で肩を組んでツーショット記念写真(笑)。
「私はシェムリアップからあなたに写真を送るでしょう」と言って握手して別れた。
あーあ、イ課長のバカ面付き写真ですまんのう。
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おっとっと。一つ忘れてた。ここまでの記事を読めばおわかりのように、カンボジアじゃ米ドルが
一般的に普及してて、現地通貨レアルを使う機会って少ない。この後行く観光地シェムリアップじゃ、
さらにドルが普及してるはずで、レアルなんて持ってても使うかどうか・・。

そこでベトナムからの入国時に両替したレアルをルイにあげちゃうことにした。
1ドル弱くらいあるはずだ。昨日は8ドルだ9ドルだって値切ったけど、ここで現地通貨を足して
ヤツの要求額通り10ドルに近づけてあげるなんて、イ課長やさしいじゃないか。

シェムリアップからメールで上のツーショット写真をルイに送った。
すぐに返事が来て、そこにはこう書かれていた。

お前のことを日本の兄弟と呼んでもいいか?

だははは!調子のいいヤロウだな~(笑)。年齢的にはイ課長がアニキで、ルイが弟分って感じか。
まぁいいよ。こっちもルイのことを「プノンペンの弟分」と呼ばせてもらうから。

というわけで、今やイ課長はプノンペンに弟分を持つ身なのである。
またプノンペンに行くことがあるかどうかわからないけど、もし行くときは事前に知らせれば張り切って
空港に迎えに来てくれるに違いない。

ルイとはFacebookでもつながってて、東京とプノンペンでお互いに「きょうでぇ」の元気な様子を確認できる。
ブログ更新のお知らせも毎回書いてるから、ルイは自分のことが「日本の兄貴」のブログに書かれてることも、
そこに自分の写真が載ってることも知ってる。つい先日も
「ヘイ、ブラザー、一体なに書いてんのさ?」
「私は今あなたのことを私のブログに書いています」
「オレ日本語読めないよ」
「でも私はクメール語が書けません」なんてアホなメッセージのやりとりをしたばかり。

ちなみに、ルイはその後バイクを買い替えたようで、赤いおんぼろフェラーリ号は今や過去のもの。
送ってきた写真によると、今やこんなかっちょええバイクでプノンペンを走り回っているようだ。
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プノンペンにはたった一泊しかしなかった。
しかしそんな異国の街に友人ができるというのは、何度経験しても楽しいものなのである。
というわけで、ルイとイ課長の「プノンペン・義兄弟の契り」の一席はこれにて(笑)。
お長くなりました。
 
 
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by tohoiwanya | 2015-08-15 00:23 | 2014.09 東南アジア旅行 | Comments(2)
2015年 08月 13日

トゥクトゥク野郎・ルイ その3

さて、専属ドライバー・ルイのトゥクトゥクでホテルに戻った。
しかし商売熱心なルイだから、ここでもまた営業が始まるんだよ。

「お前、明日はどこ行くのさ?」
「あした?明日は、私は空港に行くでしょう」
「おっしゃ。空港までオレが連れてったる。フライトは何時だ?」
「えーとぉ・・・●時●分発です」

もうこの頃にはイ課長も「プノンペン滞在中は全てこいつの後ろに乗るとすっか」という気になってた。
重い荷物持ってトゥクトゥク探す手間が省けるしね。しかし価格交渉はしないとな。ここまでは
ルイの言い値をおおむね受け入れてたけど、そうそう甘い顔を続けるわけにもいかないぜ?

「空港までいくらですか?」
「10ドルだな。だって空港はすごく遠いんだぜ?片道10ドル」
イ課長はわざと大げさに顔をしかめて「ええええ〜?8ドルにしてください」と言ってみる。
「ノーー!バカ言うなよ、空港は遠いんだってば。10ドル!」
「私は今日あなたのトゥクトゥクに何度も乗りました。明日も乗ります。私はあなたにとって
 グッドカスタマー(いいお客)でしょう?あなたはグッドカスタマーに小さなディスカウントを
 与えるべきです。8ドル!オーケイ?イエイ!」そう言って握手を求めて手を差しだす。

一瞬つられてルイが握手しそうになったけど、ヤツは必死に思いとどまった(笑)。
「だめだめ!10ドル!いいだろ?な?オーケイ?イエイ!」と今度はヤツの方から手を差し出す。

こういう時、ついつられて握手しそうになるんだよ(握手したら交渉妥結のサインなのは万国共通)。
しかしイ課長も必死に思いとどまる。

「それでは9ドル。ナインダラー。オーケイ?イエイ!!」再び手を差し出すイ課長。
ちっきしょう〜って顔しながらもルイが握手してきた。9ドルで交渉妥結。せこい客だ(笑)。
(下の写真はフェラーリ号の後部座席から振り返って撮ったプノンペン風景)
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あとで調べたら、ホテルから空港まではホテルからトゥール・スレン往復よりちょっと遠いっぽい。
もしトゥール・スレン往復8ドルという価格が妥当なら、空港まで片道10ドルというルイの言い値は
それほどボッタクリではなかったことになる。

実はこの時、イ課長はルイとの価格交渉がちょっと楽しかった。
トゥクトゥクに乗るのは事前の価格交渉が面倒で、そもそもあんまり乗らないんだけど、
この時のルイとの価格交渉はなぜか楽しいと思ったんだよ。
(下の写真もフェラーリ号乗車中のショット。ミラーに小さくルイが写ってるね)
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ホテルから空港までの時間を逆算し、あした迎えに来てもらう時間を決めた。
しかし別れる前にちょっとやっておくことがある。

「あなたはメールアドレスを持っていますか?」とイ課長が尋ねた。
「ん?ああ、あるよ。これあげるよ」と言って名刺をくれた。メールアドレスも書いてある。
「オーケイ。私はこのアドレスにさっき撮ったあなたの写真を送るであろう」

この時ルイの顔はパッと嬉しさで輝いたね。すごくわかりやすかった(笑)。
まさかイ課長がそんなこと言ってくるとは予想してなかったみたいだ。おそらくこの時から
ルイはイ課長のことを「いいヤツじゃねぇか、おめぇ」と感じ始めたんじゃないかと思う。

「ほんと?ほんとに?じゃ、ここに送ってくれよ」
「オーケイ。私はのちほど写真を送るであろう」

こう言ってその日は別れた。
ホテルの部屋からさっそく前回載せた「愛機の前のルイの勇姿」の写真を送ったらすぐに
英語で返事が来て「イイ写真だ!」って喜んでる。
現地で撮った写真をすぐにモデルさんに送ってあげるとすごく喜ぶ。その喜ぶ様子を
現地にいるうちに知ることができるというのもまた嬉しいもんだ。

このあたりからルイとイ課長の話はだんだんと“友情物語”じみてくる(笑)。
翌日はヤツに空港まで送ってもらうわけだけど、続きはまた例によって次回。

 

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by tohoiwanya | 2015-08-13 01:04 | 2014.09 東南アジア旅行 | Comments(2)
2015年 08月 11日

トゥクトゥク野郎・ルイ その2

東南アジアの国って時間にはけっこうルーズってイメージあるけど、そこは向こうもプロ。
ホテルにチェックインして部屋で少し休み、約束の2時にホテルの前に出てみると、すでにルイは
トゥクトゥクを停めて待っていた。なかなか仕事にはマジメな兄ちゃんのようである。

ホテルからトゥール・スレンまで、再びルイの背中を見ながらドライブ。
乗った距離はバスを降りてからホテルまでの距離より少し短いくらいだったはずで、もし最初の
乗車賃5ドルが正当なら、今回片道4ドル往復8ドルというのもおおむね正当と考えていいだろう。 
(下の写真、なんだありゃ?と思って撮ったのが実はカンボジア独立記念塔)
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トゥール・スレン見学中はルイに入り口ワキで待っててもらうことにした。
この辺って同じような感じの「客待ちトゥクトゥクだまり」が出来てて、トゥクトゥクだらけだ。
戻ってきた時に発見できるように車体の特徴をよーく覚えておいた。真っ赤な車体なのである。
仮に「(色だけ)フェラーリ号」とでもしておこう(笑)。
 
トゥール・スレン見学の様子はまた別途詳細に書く。
見学してる間、ルイには2時間くらい待ってもらった。彼らにすれば無駄にガソリン使って
町を流して客探すより、こうやって待機してる方が効率いいんだと思う。

外に出たらすぐルイの赤いフェラーリ号が見つかった。
専属ドライバーなんだから、この際コイツからひとつブログネタを提供してもらうとするか。
「トゥクトゥクの写真撮っていい?」と聞いて彼の商売道具の写真を撮らせてもらったから
ここでカンボジアのトゥクトゥクがどんなものか詳細にご紹介しよう。

カンボジアのトゥクトゥクはタイのそれとはかなり異なる。
タイのトゥクトゥクが「オート三輪」なのに対し、カンボジアのトゥクトゥクは二輪のオートバイが
後ろの客車(これも当然二輪)を引っ張る構造なのである。だから合計すると四輪ってことになる。
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客車はこんな感じ。大人4人は十分、子供が混じれば6人は乗れるかもしれない。
しかし実際乗ってみると、フェラーリ号はノロい(笑)。さほど大きくもないこのバイクで
ただでさえ重い客車を引っ張り、さらに大人を何人も乗せるのは馬力的に相当苦しいはずだよ。
どのくらいの排気量なのかなぁ?
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そんなイ課長の疑問を察したように、ルイが大声で言った。
「ワンハンドレッド シーシー!!」

ひえーー100cc?日本の小型自動二輪の上限(125cc)より少ないではないか。
ルイの話だとこの客車自体が何百kgだかあるそうで(正確な数値は忘れた)、さらに人間を乗せて
100ccという小排気量のバイクで引っ張るんじゃ、そりゃあノロくもなるわなぁ。

ここンところがバイクと客車をつなぐジョイント部分ということになる。
曲がり角を曲がれるように、このジョイントを中心に水平回転可動式になってると推定される。
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フェラーリ号の心臓部はこんな感じ。相当年季が入ってるよコレ。
ルイの座るシートは破れて中のアンがはみ出してるし、バッテリーは露出した状態でくっついてる。
酷使されてるんだろうなぁ、がんばれよ。
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メーターを見ると120km/hまで数字があるけど、そんなスピード絶対出ないって(笑)。
客車にイ課長一人を乗せた状態で出るスピードがせいぜい40〜50km/hくらいのはずで、
太った白人男性が4人くらい乗り込んだりしたら重すぎて動かなくなるんじゃないか?
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今まで背中の写真しかなかったけど、ここでフェラーリ号をバックにしたルイの勇姿を1枚。
いつも野球帽をかぶってるのがトレードマークみたいだ。
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「他にはどこか行かないか?パレスに行かないか?」
「いや、私はホテルに戻ります」

何せこの日は朝5時半頃に起きて、サイゴン6時半発の国境越えバスに乗ってきた身。
さすがに疲れてたし、見たかったトゥール・スレンは見たわけだから、少し休みたかった。
というわけで、今や完全に専属ドライバーとなったルイのフェラーリ号で再びホテルへ。

そろそろお日様が西に傾く時刻。初めてきたプノンペンの町をこうしてトゥクトゥクの座席から
眺めるっていうのもなかなかオツだ。バイクに乗ってる人が多いのはベトナムと同じだけど、
その数はサイゴンなんかに比べればずっと少ない。
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こうしてホテルまでルイに送ってもらったわけだけど、彼との付き合いはなぜかさらに続くことになる。
しかし長くなったから続きはまたまた次回だ。

 
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by tohoiwanya | 2015-08-11 00:01 | 2014.09 東南アジア旅行 | Comments(0)