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2017年 03月 16日

ナショナル・ポートレート・ギャラリー

さて、夜のオペラまではまだ時間があるから、トラファルガー広場でしばらく休んだあと
ナショナル・ポートレート・ギャラリーに行った。

ここはその名の通り、肖像画ばっかりが集まった美術館。
英国史なんて大して詳しくないし、ましてや「顔を見ただけで誰だかわかる人」なんて少ないから
そんなにジックリ鑑賞したわけじゃないけど、それでも本で見覚えのある人が何人かいたから
ご紹介しよう。写真も禁止されてなかったし。

【ヘンリー8世関係者】
英国史の中で、なぜかイ課長が局所的にそこだけ詳しい「ヘンリー8世と6人の妻」。
希代の自分勝手&好色王として有名な王様だから彼にまつわる女性たちの肖像画は多い。
これはお妃1号、キャサリン・オブ・アラゴン。
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自分の兄嫁だった女性と結婚したわけだけど(兄自身は結婚してすぐ若死に)・・うーーん・・
ヘンリーの女の趣味はちょっと変わってたとしか・・・(笑)。

そのキャサリンを強引に離婚した理由がこのアン・ブーリンと交尾したかったからなんだけど、
この絵を見るとますますヘンリーの女の趣味を疑いたくなる(笑)。相当フェロモン系の女性だっと
想像されるんだけど、この絵を見る限りイ課長は全くソソラれない。
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これはヘンリーの女の趣味の問題っつうより、16世紀イギリス肖像画家の技量の問題だと思った。
ハッキリ言ってヘタだ。様式的っていうのとはちょっと違うと思う。やっぱりヘタだよ。
同時期にドイツの大画家ハンス・ホルバインがチューダー朝関係者の肖像画をいくつも描いてるけど、
それらに比べたらガッカリするくらいヘタ。下の絵の右側はたぶんメアリ1世(お妃1号の娘)だろうが
わざと醜く描いてるようにすら思える。そりゃ確かに英国に美人は少な・・いや何でもない。
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「イギリス人は絵を描くのはヘタだが収集するのは上手」ってある本で読んだけど、たしかに
こういう絵を見るとそう思いたくなる。そういえばハンプトン・コートの幽霊回廊にあった王族肖像画も
絵としての魅力は全然なかったなぁ・・。

【ヴィクトリア女王】
背が低い女性だったようで「偉大なる矮人」なんて言われた人だ。
しかしルックスに関しては上のキャサリン・オブ・アラゴンやアン・ブーリンよりはマシ・・というか
まぁ普通の顔だ。16世紀よりは画家の技量も上がってモデルを理想化する技術をマスターしたかな。
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ヴィクトリア女王といえば19世紀、まさにイギリス最盛期に君臨した女王。けっこう長生きした。
ホームズが活躍してた頃の英国の女王様でもあるわけだよ、ワトソン君。

【マイケル・ファラデー】
20£紙幣の肖像にもなったくらいの、英国の大物理学者。
紙幣の肖像より若い頃だろうけどやけに二枚目だ(笑)。この頃になるとイギリスの画家も
マトモな肖像画を描けるようになったと思われる。
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意外なことにファラデーって平民出身で、高等教育受けてないんだよね。若い頃デービーって科学者の
助手に雇われたのがキャリアの始まり。デービーにしてみりゃ学歴もないファラデーを科学者として
育てようなんて考えはこれっぱかしもなかったに違いない。

とーころがファラデー君、才能あるある。
特に物理実験におけるセンスは天性のもので、メキメキ頭角を表し、様々な決定的実験によって
物理学、特に電磁気の研究分野では永久不滅の名を残した。

雇い主のデービー自身も新元素をいくつも発見した、けっこうエラい科学者だったんだけど、
「デービーの科学上最大の発見はファラデーを見つけたことだ」なんて人から言われたらしい。
それが面白くなかったのか、後年は優秀な弟子に嫉妬して足を引っ張ろうとしたこともあったようだ。
しかしファラデーは恩ある師匠には決して逆らわなかった。晩年まで科学者として尊敬され続けた、
人望あるけど謙虚な、立派な人だったらしい。

【アーネスト・シャクルトン】
うわーシャクルトンの肖像画が見られるとは嬉しい。
ちょうど英国に行く前にこの人に関する本を集中的に読んだもんで、シャクルトンはイ課長にとって
ちょっとした「マイブーム」だったのだ。
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ご存知ない方のために彼のしたことを紹介したいけど、短くまとめることはとても不可能だ。
いずれシャクルトンについては別ネタで取り上げる予定だから、その時改めて書くことにする。
シャクルトンというのは英国の極地探検家なのである。

というわけで、ザッと見たナショナル・ポートレート・ギャラリーでした。
もっと性根を据えてじっくり見ればいろいろ発見もあったんだろうけど、こン時はカンタベリー帰りで
疲れた上に腹も減ってたもんで、鑑賞もややテキトウだったのである(笑)。


 

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by tohoiwanya | 2017-03-16 00:11 | 2016.06 英国銀婚旅行 | Comments(2)
2016年 12月 16日

ロンドン交通博物館というところ

東南アジアにはさまって、時々出てくる英国旅行ネタ。
といっても、長編は書きづらいから単発でイケるネタとなるとコレあたりか。

英国旅行の最後の金曜(木曜のEU離脱国民投票結果が出た、あの金曜だ)は遠出する計画が
なかったから、グリニッジまで行き、そこからテムズ川を船で市内中心部に戻ってきた。
その日の夜はミュージカル鑑賞の予定があって、その前に一度ホテルに戻ろうと思ってたけど
それにしたってまだ時間がありすぎだろ。どこか寄っていこうか?

というわけで、近くて手頃なところというのでロンドン交通博物館に行ってみたわけだ。
コヴェント・ガーデンの近くにある博物館なのである。
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チケット売り場で「二枚」って言ったら「1回?」と聞かれた。そりゃ1回券だよ。明日はもう
日本に帰るんだから。1回券は17ポンド、二人で34ポンドだった。

入口に向かいながら頭ン中で計算してみた。17ポンド?
EU離脱が決まったあとポンドは急落したけど、イ課長が日本で換金した時は1ポンド160円くらい。
ってことは160×17=2,700円?!二枚買ったわけだから二人で5,000円以上ってことかい?!!

いやこれにはたまげた。日本でも入場料の高い展覧会あるけど、こんなに高いのは少ないだろ。
しかもココの場合通常展示でこの値段ってことだから、これはもう驚くべき高さだ。

展示内容はまぁそれなりに面白い。
何せ世界で最初の地下鉄、真っ赤なダブルデッカー、真っ黒なロンドンタクシーと、ロンドンなら
交通関連の展示物にはコト欠かないからね。
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古い列車の展示は中に入れる。当時の服装をしたマネキン人形が置かれている。
アガサ・クリスティの「パディントン発4時50分」なんて(読んだことない)、こんな感じだったのかな?
時代的にちょっと違うか・・。
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ロンドンの地下鉄建設の歴史なんかは特に興味深い。
ロンドンにはこんだけいろんな長距離鉄道のターミナル駅があり、これらを結ぶ都市鉄道を
地下鉄にしたわけだ。
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東京の場合、ターミナル駅を結ぶ役目は主に山手線が負っている。そのおかげで、たとえば
東京駅から新宿駅に行く場合も同じJRの切符のまま行くことができる。ロンドンの場合は
ドコに行くにも地下鉄に乗り換えなければならない。

しかし都市鉄道を地下鉄にしたおかげでロンドンの都心には鉄道のガードってものがない。
だからロンドンでは二階建てバスが走れるわけだ。イ課長の勤務先近くにある神田の中央線の
ガードは制限高3.9mしかない。東京に二階建ての路線バスが走れない大きな理由はそういう
制限高の低いガードが都心部にいくつもあることなのだ。
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てな感じで、展示内容はそれなりに興味深い。しかし入場料に見合うかといわれると・・・。
入場者には地元の子供(それも団体)が多く、一種の社会科見学として来場してると思われる。
子供の中にはウマも混じってたが(笑)、観光客らしき外国人は見かけなかったなぁ。
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英国ではナショナルギャラリーや大英博物館なんかの入場料がタダっていうのは有名な話。
しかしタダじゃないミュージアム系の入場料はベラボウに高いんだね。以前、ハンプトンコートに
行った時も「うわ、高けぇ」と思ったけど、交通博物館の入場料の高さはアレをはるかに上回る。
展示物を見てる間も「二人で5,000円以上」と思い出すたびに、これは夢ではないかと思った。
なんとなくボーゼンとしてるでしょ(笑)。
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国立施設はタダ、それ以外の市営とか私営だとバカ高っていう原則なのかもしれない。
でもマンチェスターのMOSI(科学産業博物館)はタダだったぞ。あれは国立なのかな?
とりあえずロンドン観光では国立のミュージアムに行きましょう。実際、イ課長たちが行った
ナショナル・ポートレート・ギャラリーは無料だったし。

ロンドン交通博物館。乗り物好きなら興味深い博物館で、そういう点じゃイ課長だって乗り物好きだ。
しかし17ポンド払う価値があるかといわれると微妙。これが600円くらいの入場料なら心おきなく
「お勧め」と言えるんだが。


 

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by tohoiwanya | 2016-12-16 00:18 | 2016.06 英国銀婚旅行 | Comments(6)
2015年 09月 10日

トゥール・スレン虐殺博物館 その5

さー、のどかなプノンペン散歩ネタを二つ続けて油断?させたところで、
トゥール・スレン最後のダークネタに戻ろうか(これで最後だから勘弁しちくり)。

実はトゥール・スレンを見学した後のイ課長の中には何となくモヤモヤが残っていた。
ポル・ポト体制の異常な残虐さに対するモヤモヤじゃなく(まぁそれはそれで当然あったわけだが)
あの施設そのものの「感じ」に対するモヤモヤだ。

地元の中学生たちがゾロゾロ見学なんて風景はなくて、見学者は外国人旅行者ばっか


トゥール・スレンの続き物の最初の記事でイ課長はこう書いた。
普通に考えれば、こういう施設は平和教育・反戦教育のために積極的に活用されるはずで、
カンボジアの明日を担うコドモたちがいっぱい見学に来てて不思議はないはずだ。
実際、アウシュビッツには地元ポーランドに限らず欧州のいろんな国の学校の生徒が見学に来てるし
修学旅行とかで広島や長崎の原爆資料館を見学する日本の子供も多いはずだ。

まぁトゥール・スレンの場合、人骨の実物とか死体写真とか、けっこうアレな展示もあるから
子供にはちょっとアレかな・・しかし見学者が外人ばっかで、地元の人の姿が全然ないっていうのは
ちょっと意外で、それがモヤモヤにつながっていた。
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しかし後付け知識を仕入れた上で振り返ってみると「地元の人があまり見学に来てないな」という
イ課長の印象はトゥール・スレンの根本的な問題を表してるって気がしてくるんだよ。これには
以前に「予習その2」で書いた内容が関わってくる。

ベトナム軍の侵攻のおかげでカンボジア人たちはポル・ポト支配から解放された。
しかし国連はじめ米、中、日その他多くの国々はポル・ポトを倒したヘン・サムリン政権を
「ベトナム傀儡」だっていうんで認めず、ポル・ポトを正式なカンボジア政府として承認し続けた。
それに対し、ベトナムはカンボジアで何があったかを一生懸命世界に訴えた・・って書いたよね?
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問題はまさにここだ。
要するにトゥール・スレンって、カンボジア人自身が博物館として残そうとしたんじゃないんだよ。
ベトナムが自国軍のカンボジア侵攻を正当化するために作った施設なのだ。そこには当然、
「見てよほら、ポル・ポトってこんなに残虐だったんだぜ?!」というベトナム側の政治宣伝目的が
あったのは否定できない。実際、ベトナム軍はプノンペンからポル・ポト派を追い出した1979年1月から
わずか1か月後にはトゥール・スレンを外国報道陣に公開したらしいからね。

ポル・ポト派はこんなにヒドかった、そんなヤツらを追い出すために攻め込んだベトナムの行動は正当。
ベトナム側にすればそう主張したかったはずだ。そしてトゥール・スレンこそがその「ヒドさ」を立証する
格好の証拠物件だったこともまた確か。ここを外国のプレスに見せ、世にも残虐なポル・ポト派の実態を
世界にアピールしようとしたわけだ。

しかし何度もいうけどそれはカンボジア人自身の意思じゃない。ベトナム側の思惑だ。
カンボジアの為政者の残虐さを訴えるためにベトナム作った施設。そういう施設をだよ?果たして
カンボジア人自身が自国の子供たちの平和教育に積極的に活用しようと思うだろうか?
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仮に、ある日本人為政者が日本人を大量虐殺したとしよう(仮に、ですからね)。
その恐怖時代が仮に(何度も言うけど仮に、ですよ)中国軍の日本侵攻によって終焉を迎えたとしよう。
そのあと、東京にあった日本人虐殺施設を中国軍が展示施設として公開したと考えたら、どう?
「日本の支配者はこんなに残虐だった。それを攻め滅ぼした中国軍の日本侵攻は正しかった」という
政治宣伝目的を帯びた施設。

さぁ、日本人はそこを見学しようと思うでしょうか?
次世代の平和教育のために子供たちを積極的に見学させようとするでしょうか?

広島原爆資料館にしても、南京大虐殺紀念館にしても、それらは全て「後からその国の人」が作った。
でもアウシュビッツは違う、と昔書いた。アウシュビッツはポーランド人が作ったわけじゃない。
しかし、あの忌まわしい施設を敢えて残そう、後世に伝えようと思ったのは「その国の人」、
つまりポーランド人自身が中心だったはずだ。

トゥール・スレンも「忌まわしい記憶そのもの」の施設であるという点ではアウシュビッツと同じ
稀有な施設と言っていい。しかしその施設の設立趣旨はアウシュビッツとはだいぶ違う。
忌まわしい記憶の染みついた施設としてトゥール・スレンを残し、公開しようと考えたのは
自分たちじゃない。自国に侵攻してきた「隣りの国の人たち」なのだ。
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そう考えると、確かにトゥール・スレンの展示内容はかなり「残虐さ」が強調されてる部分がある。
以前は「頭蓋骨でできたカンボジア地図」なんて悪趣味な展示すらあったわけだからね。もちろん、
現在はトゥール・スレンの展示内容管理はカンボジアがやってるはずだけど、最初にベトナム軍がここを
公開した時の“展示方針”が残ってるということはあるだろう。

上の絵を見るとわかるように、トゥール・スレンの中には全体が鉄条網で覆われた建物もあって、
その建物は現在でも鉄条網に覆われたまま残っている。
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前にも書いたようにポル・ポト体制下ではプノンペンは住民のいないゴーストタウンにさせられてた。
当時プノンペンで「人がいて、マトモに機能していた施設」って、一部政府機関、一部の大使館、
そしてこのトゥール・スレンくらいしかなかったらしい。
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鉄条網ごしに、いまは発展するプノンペンの街が見える。
しかし当時の収容者たちに見えたのは誰もいない、空っぽの、殺伐たる町だったはずだ。 
 
トゥール・スレン虐殺博物館。
それほど重要な観光物件もないプノンペンという街で、ダーク・ツーリズムという点では
ここは確かにダークな、必見の施設と言っていいと思う。

しかしイ課長自身のことを考えても、事前に“予習”したり、帰国後にさらに後付け知識を
仕入れることで、ここを見学したことの意義はさらに高まる。何も知らずにココに行っても
「うわー、ザンコクー、キモチわりーー」だけで終わってしまう可能性は高い。

ご自身で少し予備知識を仕入れてから見学すると、感じるところも多いはずだ。
まぁ、ダーク・ツーリズムって大体どこもそうだけどね。

ダークなトゥール・スレン見学についてはこれで完結です。例によってお長くなりました・・・。

 
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by tohoiwanya | 2015-09-10 00:10 | 2014.09 東南アジア旅行 | Comments(8)
2015年 09月 02日

トゥール・スレン虐殺博物館 その4

本日はトゥール・スレンにおいて、イ課長としては最も気分が暗くなった展示について書く。
ちょっと閲覧注意系の写真もある。見たくない人は早めにスクロールして下さい。


⑩死者の写真と部屋
ベトナム軍がプノンペンに入ってきた時、取るものもとりあえず敗走したクメール・ルージュ。
トゥール・スレンには彼らがほったらかした死体が残ってたって話は前に書いた。

その死体発見当時の写真も展示されている。
実際のところ、ここに収容された人の多くは「ここ」で殺されたんじゃなく、プノンペン郊外の
チュンエクという村で殺されることが多かったとされる。そこはただの野原で、大きな穴を掘り、
穴のふちで殺し、穴に落とし、穴が一杯になると埋めた。殺す側にすれば処理しやすい。
トゥール・スレンは拷問取り調べ、自白させたらチュンエクの“埋葬所”に運んで殺すという流れ。

しかしトゥール・スレンでも拷問のしすぎとか、人体実験とかで死体は発生した。
いずれ運んで埋める予定だったけど、ベトナム軍が入ってきたからほっぽらかして逃げたんだろうな。
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古い写真で不鮮明だからよくわからないけど、この写真に写ってる部屋やベッドはおそらく
今自分が見ているこの部屋、このベッドであることに気付く。窓や机の位置は発見当時に近づけてるし
ベッドの枠の模様なんかも写真と同じだ。
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⑪遺骨
殺された人の遺骨もたくさん残ってる。

上に書いた、チュンエク村の虐殺施設。そこは現在「キリング・フィールド」という名称で
トゥール・スレンと並ぶプノンペンの“観光資源”になっている(行かなかったが)。

そこには膨大な数の人骨を納めた慰霊塔兼納骨堂みたいなものがあるってのは知ってたけど、
トゥール・スレンにもにもこんなにたくさん人骨が展示されてるとは思わなかった。
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以前はここに「ドクロで作られた巨大なカンボジアの地図」なんて展示もあったらしいけど、さすがに
悪趣味という批判が多くて撤去。まぁ現在の人骨の展示も人によっては拒絶反応あるだろうが。


⑫収容者の写真
イ課長にとっては遺体写真や人骨よりはるかにキツかったもの、トゥール・スレンで最も見るのが
ツラかったのは膨大な数の収容者の写真だ。クメール・ルージュはここにしょっぴいてきた人間を
一人ずつ几帳面に写真を撮ってたようで、残ってたネガから死者たちの顔が復活した。
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まるでパスポート写真のように正面を向いて、鮮明な画像として残っている収容者たち。
ここに収容される時に撮られたってことは、彼らの人生における最後の写真ということになる。
これは文字通り彼らの「遺影」に他ならない。
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収容され、写真に撮られた時点でもう自分の運命を予感した人も多かったのかもしれない。
でもこの先のことが全然わからず、呆然としてたり怯えたりしてる人の顔も少なくない。
でもこの写真に写ってる人たちが全員殺されてるのは確かなのだ。
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彼らはみんな正面、つまりカメラの方を向いてるわけだから、必然的にその視線は写真を見てるガワの
イ課長の視線とぶつかることになる。つまり死者たちがみんなイ課長を見てるわけだ。
これはもういたたまれない気分になる。
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帰国後、ある本でこれら写真について書かれた文章を読んだ。その著者は写真を見た時の印象を
「最初はまったく腑に落ちないものだった」と言ってる。なぜかというと写真の中にはスパイという
言いがかりをつけるのもムリがありそうな子供や老人がけっこう混じってるからだ。
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その本によると、こういう子供って実は「反革命的」「スパイ」とされた人間の家族らしい。
反革命思想に染まったヤカラは一家根絶やしにするために老人だろうがコドモだろうが一家そろって
全員が収容され、全員が殺されたわけだ。
  

個人的にはこの「こっちを見てる収容者の写真」がトゥール・スレンで最も精神的負担が大きい展示だった。
アウシュビッツで見た靴や鞄の山はそれでもまだ“人格性”が希薄だから想像で補うって部分があったけど、
ここまでハッキリした、具体的な顔写真となるともう想像の余地はなんてない。
膨大な数の、個々の死者たちと対峙しなければならない。これはキツかったよ。
残酷でもグロでもない、ごく普通の「顔写真」だからよけいにキツい。

トゥール・スレン虐殺博物館。こういうところなのである。
これでようやく長く暗かった続きもの記事も完結した・・・と思うでしょ?

ところが恐ろしいことにまだ続きがある。いや、展示内容は大体紹介し終えたんだけど、
トゥール・スレンの抱える暗い問題についてはまだ書いておきたいコトがあるのだ。
でも、とりあえず一回か二回はフツーの記事をはさんで少し雰囲気を変える予定だから
お読みの方々も少し安心?して欲しいのである。

 
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by tohoiwanya | 2015-09-02 00:06 | 2014.09 東南アジア旅行 | Comments(0)
2015年 08月 31日

トゥール・スレン虐殺博物館 その3

ウチも最近はすっかり暗黒ブログ化した感があるな。
しかしそれでも書くトゥール・スレン虐殺博物館展示内容。今日はまたさらに重苦しい話になる。


⑧看守たちの写真
トゥール・スレンにおいて収容者の拷問その他の実務にあたった看守たち。
ポル・ポト体制のキモチ悪さを象徴するように、看守たちはほとんど10代のコドモばかりだった。
以前に書いたように、子供の頃から洗脳教育された異常なコドモ革命闘士、コドモ看守たち。

コドモ看守の写真はたくさん残ってる。全員同じ帽子をかぶり、笑顔を見せている者もいる。
まだ幼さ丸出しの彼らが革命洗脳教育をうけ、拷問技能に関するスキルを訓練されたうえで
トゥール・スレンで働いてたわけだ。
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ポル・ポト体制下では学校も病院も全て閉鎖され、医者や教師はインテリだから殺された。
病院もなけりゃ医者もいないという状態で、たとえば農村地域で強制労働させられてる誰かが
病気になった場合どうしたのか?放置された?その方がよかったかもしれん。

そういう場合、コドモ看守と同じような急ごしらえの「コドモ医者」が医療行為にあたったらしい。
もちろんド素人だから病気なんて治せっこない。内容的には真似ごと、お医者ごっこのレベルだろう。
実際、家族が「注射されたとたんに死んだ」なんていうカンボジア難民の証言は少なくないのだ。
理不尽な強制労働のあげく空腹と疲労で病気になり、医療技術ゼロのコドモ医者にかかって死ぬなんて、
もはやグロテスクな悪夢そのもの。
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女性の看守もいた。こちらもみんな若い。
モノの本によると当時「ポル・ポト体制側女子」のヘアスタイルは横分け+首の後ろでざっくり切った髪型に
決まってたらしい。ここで一番左の列の、下から2番目に写ってるゴツい顔の女性を記憶しておいていただきたい。
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看守みたいな、ポル・ポト体制下における“体制側”の仕事に就いてた者って、クメール・ルージュが
政権をとる前からポル・ポト派の支配下にあった「解放区」の住民たちで、農村出身者が多い。

そういう体制側から見ればプノンペンみたいな都市部の連中は「革命思想が浸透してないクズ人間」だから
町から強制的に追い出し、強制労働させながら教育するのが当然という発想になる。その中に少しでも
反革命分子が混じれば悪い思想はすぐ広がる。そうなる前にアヤシそうなヤツは片っ端から施設に集め、
自白させ、殺す。彼らにとってはスジの通った革命思想だったんだと思われる。


⑨看守たちの回想(反省?)
そういう“体制側”にいて、多くの自国民を拷問し、殺した看守たち。
1979年1月のポル・ポト敗走後、一部ではそういう連中に対する復讐リンチもあったらしい。
でも全体としてはそういう例って少数で、多くの看守たちはその後もカンボジアで罪に問われることなく
多少の“再教育”を経ていまも普通に生活している。

戦争犯罪って通常は「A国(通常は戦勝国)の人間を殺したB国(通常は敗戦国)の人間」が
対象になる。裁判では「殺された国」のガワの裁判官なり検察官なりが「殺した国」の
軍人や政治家を裁く形になる。日本もドイツもそうだった。

しかしカンボジアの場合そうじゃない。自国民が自国民を殺してるから、仮に戦争犯罪で
裁くとしても、告発する相手は当然自国民だ。
ただでさえ人口の1/2だか1/3だかが殺されたっていうのに、さらに大量のカンボジア人を、
カンボジア人自身が戦犯として追求し、投獄し、場合によっては処刑できるだろうか?

ポル・ポト体制がカンボジアに残した大〜きな傷の一つがコレだと思うんだよイ課長は。
家族を殺された恨みを持つ人間と、殺した当事者である元看守とがその後も混じり合ったまま
一つの国の国民を形成し続けてる。イ課長には想像が難しい世界だ。

トゥール・スレンにはそういう「今もカンボジアで生活してる旧ポル・ポト体制側の人」のことも
展示されている。要するに当時のココの看守たちはいまどうしてて、何を思うか?というわけだ。

⑧で「一番左の列の下から2番目の女性をご記憶あれ」と書いた。
たまたまイ課長の写真に入ってたその女性が「看守のその後」の展示の対象になっていたんだよ。
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写真の感じだと今はカンボジアのどこかの農村でつましく暮らしているっぽい。
当時の恨みを持った連中に今でも狙われるとか、復讐が怖くてしょうがないってこと、ないんだろうか?

「看守のその後」に関する展示は他にもある。
この男性の場合「当時クメール・ルージュのために働いたことは後悔してない。罪を犯した者には
裁判がなされるべきだ」みたいな本人の回顧談が載ってる。彼が看守だった当時の写真を見ると、
まるっきり中学生くらいだ。
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しかし現在の彼が革命の名の元に死んだ何百万もの自国民に(その中の何人かは自分が殺してるかもしれない)
何を思うのか、この短い文章からは読み取れない。そして、これもまたイ課長には想像がつかない。


うーん・・書いてたらまた長くなってしまった。しかし最もキツい展示はまだあるのだ。
さらにトゥール・スレンの記事は続くのである。

 
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by tohoiwanya | 2015-08-31 00:08 | 2014.09 東南アジア旅行 | Comments(0)
2015年 08月 28日

トゥール・スレン虐殺博物館 その2

「気分が暗くなる度合い」の少ないものから書いていってるトゥール・スレン虐殺博物館。
展示内容のダーク度はだんだん高くなる。覚悟して読み続けてほしい。

④ハリと瓶
建物の上から“校庭”を見渡すとこんなものがあった。
あー、こういうのはアウシュビッツでも見たよ。吊るし首用のハリだろう?
地面にある水瓶は何だかわかんないけど、これはただ水をためておくものだろうと思った。
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だが実態はちょっと違ったようだ。これは「後ろ手吊るし」と「水責め」の拷問設備だったんだな。
それは下の絵を見るとわかる。
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後ろ手吊るしって昔からよく使われる拷問で、自分の体重で肩がはずれることが多いとされる。
そもそもこの高いハリも、高校の体操の吊り輪練習用にあったものらしいのだ。学校にあった設備が
こういう用途に“有効利用”されてたわけ。


⑤お墓
旧校庭、いまは博物館の中庭にはこんな感じの白いお墓がいくつも並んでいる。
ここで殺された人のお墓・・・にしては数が少なすぎないか?
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1979年にベトナム軍(+反ポル・ポトのカンボジア勢力)がプノンペンに進軍した時、
ポル・ポト派はロクな抵抗もせず、西のタイ国境山岳地帯に敗走した。ベトナム軍は市街戦を
することなくプノンペンを、いわばまぁ「無血解放」できたことになる。

で、このトゥール・スレンに来てみたベトナム軍はキモを潰した(んじゃないかと思う)。
ポル・ポト派はこの施設も「そのまま」の状態で逃げちゃったわけで、そこには無惨に放置された
死体も残っていた。

そういう放置死体を埋めたのがこの白い墓ということらしい。遺体は14人くらいあったとか。
下の写真は79年1月に解放された時に生き残っていた子供、と書かれているね。
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⑥拷問グッズ
反革命分子を尋問し、強制自白させ、殺すことが目的の施設だったわけだから、尋問に際しての拷問は
当然のように行われた。この辺はワルシャワの旧ゲシュタポ本部と同じで、こういう施設はいつの時代の
どこの国でも同じようなものになるんだろう。
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当時の拷問の様子が絵で(生き残りの収容者が描いたと思われる)展示されてる。絵の破損が激しくて
イマイチよくわからないが、拷問にはいろんな方法があったようだ。
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・・と思ってたら、上の写真の一番下の絵で使われてた拷問グッズの実物もある。
一種の水責めみたいなもので、人ひとり沈めるわけだから実物はけっこうデカい。
うううーー・・だんだん気分が重苦しくなってきたぞ。
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⑦独房
トゥール・スレンには収容者をブチ込んだ独房もそのまま残っている。前に見た大部屋が一般収容者用とすれば
こっちは何らかの理由でもっと苦しめる必要がある「要処罰収容者用」だったんだと思われる。

これがさー・・レンガ造りなんだけど、とにかくやたら雑に作ってあるんだよね。
見た目なんて悪くていいからとにかく急ごしらえで作ったってのが明らかだ。そういう独房が
学校らしいキレイなタイル貼りの床の上にあるわけで、その「マッチしてなさ」が気持ち悪い。
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独房は恐ろしく狭い。このクサリは足かせだったと思われる。ベッドもイスもテーブルもなくて
寝たければ床にゴロ寝。ちなみに、トイレもこの中でシたそうで、ソレ用の小さな箱一つを
渡されただけでブチ込まれたらしい。
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木製の独房もある。これはイ課長の想像だけど、最初はレンガで作ってたんだけど、コストと時間が
かかるから木にしたんじゃないかなぁ?東南アジアなら木の方が材料費も安いはずだ。
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自国民を殺すにあたってクメール・ルージュがものすごくケチだったっていうのは有名な話で、
銃殺なんてしない(タマ代がもったいない)。棍棒とか刃物とか、赤ん坊は木に叩き付けるとか、
コストのかからない殺し方をしたと言われている。相手は空腹と拷問で半死半生の状態だから
棍棒でも“効率よく”殺せたらしい。木造の独房っていうのも低コスト化のためじゃないのかなぁ?


かなり気分が暗くなってきた?しかしこんなもんじゃないのだ、トゥール・スレンは。
次回はさらに暗くなるけど、イ課長は書くのである。

 
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by tohoiwanya | 2015-08-28 00:06 | 2014.09 東南アジア旅行 | Comments(2)
2015年 08月 26日

トゥール・スレン虐殺博物館 その1

それでは始めよう。トゥール・スレン虐殺博物館。

以前にこのブログでダークツーリズムについて書いたとき、アウシュビッツ以外の代表的な
ダークツーリズムの例としてカンボジアのトゥール・スレンや南京大虐殺紀念館について触れた。
あれを書いたのが2013年の10月。それからわずか1年後の2014年9月にまさか自分が本当に
トゥール・スレンに行くことになるたぁ、お釈迦様もイ課長も気が付かなかったねー。

そもそも最初はトゥール・スレンがカンボジアのドコにあるのかも知らなかったんだから。
何となくアウシュビッツと同じように人里離れたところにあるんだろうって先入観があったけど
実はプノンペン市内の便利な場所にあって、元々は高校の校舎だったんだと。

入口はこんな感じ。入場料は2ドルくらいだったと思う。米ドルね。
地元の中学生たちがゾロゾロ見学なんていう感じは全然なくて、来場者はほとんど全員が
海外から来た旅行者のようだ。ただし日本人らしき人は見かけなかったなぁ。
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建物の感じは日本人から見ても確かに学校の校舎っぽい構造になってると思う。
建物の両端に階段があり、各階の教室はベランダ兼用の廊下でつながってる。イ課長がむかし通った
中学校も同じような構造だったよ。内廊下がないんだよね。
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しかしここがポル・ポト時代なにに使われてたか知ってる見学者としては、建物が学校っぽいがゆえに
逆に不気味な気分になる。ごく普通の学校が自国民拷問・虐殺の一大拠点として使われたという事実。
階段の踊り場の床にはこんなシミがあるけど、これ、もしかすると血の跡か?トゥール・スレンには
床に血痕が残ってるなんて場所がけっこうあるらしいんだけど、ここかなぁ?ううう・・・
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トゥール・スレンの展示内容をご紹介するにあたっては「見た順」ではなく「ダーク度」を指標に書こう。
「気分がダークになった度合いの」軽→重という流れで書いていきたい。その方が読み手も少しずつ
“耐性”ができていくような気がするからね。まずは穏やかなところから。


①関連図書資料展示
教室の一つは関連図書を集めて自由にお読みくださいって感じの部屋になってる。
欧米人旅行者が何人もジックリ読んでた。欧米人が多いってことは英文図書が多いはずで、
イ課長は特に何か読んでみるってことはしなかったけど、こんな風に机とイスが並んでるのを見ると
改めて「ここはもと学校だったんだなぁ」って感じる。
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②大部屋
ここでは共産主義革命の内部攪乱を図る反革命分子を片っ端からしょっぴき、尋問し、拷問し、殺した。
そういう意味じゃワルシャワ旧ゲシュタポ本部に似た性格を持ってるんだけど、収容していた
人数も相当多かったようで、収容所的な側面もある。これが教室を使った大部屋収容施設。
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番号のあるところが「一人分の就寝スペース」ってことらしいから、ほとんど体をくっつけるようにして
寝てたわけだ。冷房はないから夏は暑かったはずで、隣りのヤツの体は汗でベトベト・・なんてことを
気にしてられないくらい、ここの衛生状態はそもそも最悪だったらしいけどね。
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当時の様子を描いた絵(反射で見づらいが)。床にすごい密度で収容者が寝かされてる。
耐え難い居住環境だ。もっとも、逮捕⇒尋問&拷問⇒粛清(殺害)というここのシステムを考えれば
一人の収容者が1年も2年もここで暮らすということはあまりなくて、収容期間は数か月程度ってのが
多かったなんて話も読んだ。
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③収容者心得
歩いていくとこんな英語の看板があった。最初は「飲食禁止」みたいに見学者向けの注意事項でも
書いてあるのかと思ったけど、乏しい英語力で読んでみると、これは当時の収容者たちに対して
体制側(要するにポル・ポト派)が要求した一種の“収容者心得”だってことがわかってくる。
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1.質問にはちゃんと答えなければならない。質問をそらしてはならない。
2.口実を設けて事実を隠してはならない。お前が抵抗することは厳しく禁じられている。
3.お前は革命を阻害する愚か者であってはならない。
4.お前は質問に対して時間を無駄にすることなくただちに答えなければならない。

(中略。英語が得意な方、訳してください)
10.いかなる規則違反があった場合でも10回の鞭打ちか5回の電気ショックをうけることになる。

十分予想されることだけど、実際ここに収容された人のほとんど、つうかほぼ100%近くは
反革命分子でもスパイでも何でもないフツーの人。そういう人たちが拷問の苦痛に耐えかねて
「自分はスパイですぅ」という自白を強要され、仲間(親戚や友人)は誰かを吐かさせられる。
そこで名前の出た仲間(親戚や友人)もまたここにしょっぴかれ、拷問され、自白を強要され、
仲間の名前を言わされ・・というイモづる式のサイクルが延々と繰り返されたわけだ。

「私、スパイですぅ」なんて自白すれば、自分が処刑されるってことは十分わかっている。
しかし仮にテコでも自白しなければ、延々と拷問また拷問が続き、拷問の果ての拷問死が待っている。
どっちみち自分は殺されるという状況の中で「少しでも長く生きて長く拷問され続ける」か
「早くウソ自白して早く死ぬ」か・・収容者たちはそういう選択を迫られたことになる。


トゥール・スレン虐殺博物館。この程度の“ダークさ加減”はまだ序の口なんだけど、
続きは次回だ。まだまだあるぞ。

 
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by tohoiwanya | 2015-08-26 00:08 | 2014.09 東南アジア旅行 | Comments(0)
2013年 10月 18日

ベトナム女性博物館

偉大なるベトナム女性を讃えて、前回の続き。

ベトナムじゅうで元気にバリバリ働く女性たちを見てすっかり感心したイ課長、ベトナム滞在最後の日に
ハノイである博物館に足を運んでみた。
この旅行ではひたすら街歩き中心で過ごしたから、ミュージアム系施設ってほとんど行かなかったけど
その中で唯一足を運んだ博物館がココ。
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その名もズバリVietnamese Women's Museum=ベトナム女性博物館。
といっても、もちろんベトナム女性の人体標本やミイラを見せているところではない(笑)。
ベトナムの昔と今、そしてベトナムの文化を「女性」という切り口で構成した、ユニークな博物館なのだ。
入場料は3万ドン(約150円)なのである。

ベトナムのミュージアムが一般的にそうなのかどうか知らないけど、この博物館は写真撮影に関して
特に禁止表示がなかった。他の入場者もみんな撮ってたし、イ課長も安心して撮らせていただくことにした。

この博物館では人それぞれ興味のある展示コーナーが異なるだろうね。カップルで来ると面白いかも。
たとえば、こういうベトナム少数民族の女性用衣装なんて、ご婦人にとってはけっこう興味深いだろうし、
この博物館でも重要な展示品のはずだけど、こういう展示はイ課長はわりとサラリと済ませちゃう。
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逆に、ベトナム戦争当時の女性の活躍とか、プロパガンダポスターなんかはとても興味深い。
左のポスターなんてニクソンの顔が描かれてて面白い。ベトナム戦争当時のベトナム人民にとっちゃ、
ニクソンはまさに米帝国主義を象徴する悪の権化だったんだよなぁ。まぁ確かに悪人ヅラだったし。
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これはベトナム戦争当時、特に英雄的な活躍をした女性兵士の紹介じゃないかと思われる。
しかしこんな美人兵士がいたら、ヤロウどもはかえって戦闘に集中できなくなるんじゃないか、なんて
要らぬ心配をしたくなる。
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こちらも英雄的女性兵士と思われる。イ課長の好みでは、こちらはまた一段と美人に思える。こんな女性が
同じ部隊にいたら、敵を射つことより、この女性兵士といかに仲良くなるかに血道をあげるだろう(笑)。
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このポスターも面白かったな。これ、女性も健康診断をうけましょう、みたいな啓発ポスターなんだと思う。
こっちの作品は切り絵風のシンプルな図柄ですっきりとまとまってるじゃない?
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しかしその隣に展示されたポスターは、同じ健康診断(妊婦健診かな?)のススメでも異様に劇画調(笑)。
こういうのってホントに面白くて、見てて飽きないよ。
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写真や映像展示も多い。
働き、子供を育て、(このトシなら間違いなく)戦火をかいくぐって生き延びた、たくましいベトナムばあちゃんズ。
壮観だ。さっきの美人兵士も、戦死せずに生きていればこのくらいのばあちゃんズになってるはずだが・・・。
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こっちじゃベトナムのそこらじゅうにいる行商のオバさんのドキュメンタリーを映像で紹介してる。
ベトナムの女性は、たとえ自分の店を持ってなくても道端でガンガン商売してる。たくましい。
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てな具合に、ユニークでなかなか面白い博物館だったよ、ベトナム女性博物館。
ハノイに行く機会があったら、行ってみて損はない。ミュージアムショップもあるよ。

涼しかった博物館を出て、キョーレツな陽射しの中、また汗ダクダクになってホテルの方向に歩く。
目の前に、同じ方向に歩く行商のオバちゃんがいた。自転車に乗せた飲物か何かを売ってるっぽい。
さっき見たドキュメンリーそのものじゃん。
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歩く方向が同じだから、しばらくこのオバちゃんの後をついて歩く形になった。
ちょうどお昼時で一番暑い時間。歩道は人でにぎわってるけど、このオバちゃんから飲物を買う客は
一人もいない。それでもカンカン照りの中、「なんとかー」って売り声をあげながら歩き続ける。
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やがてイ課長は道を曲がり、この行商オバちゃんとも別れる形になった。
がんばれオバちゃん。心の中でエールを送った(買ってやれって)。

働き者のベトナムの女性たち。「けなげ」っていうのとはちょっと違って、強くて、タフで、したたか。
そんな彼女たちのすべてに幸あれと願うイ課長なのである。やっぱね、働く女性は常に美しいんだよ。
「ベトナムは美人が多い」とイ課長が感じた要因も、実はそんなところにあるのかも。
 

 
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by tohoiwanya | 2013-10-18 00:02 | 2013.06 東南アジア旅行 | Comments(2)
2013年 07月 09日

誰も知らない施設「闘争と殉教の霊廟」 その2

続き物にした自責の念があるから、粛々と2日連続で更新するのである(笑)。

ためしに「ワルシャワ ゲシュタポ本部」でgoogle検索してみると、この建物の前を通ったっていう話は
あるけど、中に入ったっていう日本語の情報はやっぱりないみたいだなぁ。

日本で初めて紹介されようとしてるのかもしれないワルシャワ旧ゲシュタポ本部、別名「闘争と殉教の霊廟」。
それでは奥の方に入ってみましょう。
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この施設、全体の構造はこんな感じになっている。長っ細い構造のところに小さい部屋がいくつもある。
実物はこんな風に長~い廊下があって、片側に小さな部屋がずらりと並んでいるというわけだ。
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小部屋の一つを覗いてみると・・・おお、これは明らかに独房だ。ダークだ。
こういうところにブチ込まれたナチ抵抗分子のポーランド人がいったい何人いたことか。
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こっちはと見ると、これはゲシュタポ要人の執務室っぽい。「尋問部長室」って感じか。
さっきの独房とは大違いで、わりと明るくて間取りも広い。
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しかし、尋問部長室でフと脇に目を転じるとこんなグッズが入った棚が置かれている。
う、これは・・・
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・・・これは明らかに防毒マスクだ。
ゲシュタポ本部で防毒マスク?なんとなくイヤなイメージが湧いてくる。
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椅子に後ろ手に縛られた反ナチ分子のポーランド人が、首を振って抵抗するのを抑えつけて
ムリヤリこのマスクをはめさせ、そこから神経ガスかなにかを強制的に吸わせて・・・いや、これは
あくまでもイ課長の妄想だけどさ。

こっちはもっとイヤなイメージが湧いてくる。
具体的にはわからんが、ガスとかじゃなく、もっと物理的に痛めつけるための拷問器具としか思えない。
なんてダークなんだ。とは思いつつ、やっぱり目が離せない。
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この施設の中でも特に印象的なのがここ。
ここは尋問(あるいは拷問)前の逮捕者たちの、まぁなんというか一種の「控え室」みたいなもんで、
ここでジッと座って自分の番がくるのを待ったらしい。
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もちろん他の逮捕者たちと会話するなんてことは許されず、この暗い部屋の、この小さな椅子に座って
ひたすら自分が呼ばれるのを待ったんだろう。ここは通称「トラム」と呼ばれたんだと。

「大変だ、ホニャビッチがゲシュタポに連行されたらしい」
「かわいそうに、またトラム行きか」 なんて感じで話されたんだろうな、当時のワルシャワでは。

闘争と殉教の霊廟、要するにこういうところなのだ。
施設自体はそんなに広いものではないし、何かすごい展示物があるというわけでもない。
じっくり見ても、見学自体は長時間を要しない。

かつてのゲシュタポ本部が、戦争で破壊されることもなく、ほぼ当時のまま残っているという、そのこと自体に
意味がある場所だよな。内部のダークな雰囲気は、それはもうスゴくて、しばらく中を見ているうちに
少し息苦しくなったような気分になる。

さて、そろそろ明るい外の空気を吸おうと、出口に向かったら、途中にノートが置いてあった。
見学者が感想なんかを自由に書き込むノートで、まぁ観光地なんでよくあるやつだ。
それをパラパラとめくってみたけど、日本語はおろか漢字もハングルもまったく見つからない。
ここに来る東洋人の旅行者なんて皆無に近いんだろう。誰も知らないんだからしょうがないよな。

私はここに来た初めての日本人なのだろうか?

ノートに日本語でそう書いて、外に出た。
外には開館時間とかのプレートが貼ってあるけど、ポーランド語だからサッパリわからない。
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・・・と思ったら、おっと英語もあるじゃないか。
なんと、ここって月曜火曜は休みなんだ!いやーー運が良かったなぁ。
この日はちょうど水曜で、ここに来るチャンスはこの時しかなかったのだ。
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闘争と殉教の霊廟。
知られざるワルシャワ観光・見学スポットとして、ぜひ見るべき・・・とは口が裂けても言えない(笑)。
見たら気が滅入るのは間違いない。

ただ、とにかくここは日本であまりにも知られてなさすぎるからね。情報はほとんど皆無。
そんなこともあって、この施設のことはちょっと丁寧にご紹介したかった。

イ課長と同じようにダーク志向の強い人なら(あまり多いとは思えないが)、見学してみる価値はある。
場所はここ。見学者は多くなさそうだから、あのノートにイ課長が書いた筆跡がまだ残ってるかも(笑)。


 
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by tohoiwanya | 2013-07-09 00:15 | 2012.06 東欧・北欧旅行 | Comments(4)
2013年 07月 08日

誰も知らない施設「闘争と殉教の霊廟」その1

さて、久しぶりにポーランドのダ~クなネタをいってみよう。
ダークなネタ・クラクフ編はいずれ集中爆撃することにして(笑)、本日はまたもやワルシャワ編。

闘争と殉教の霊廟

という施設をご存知の方はいるだろうか?おそらくいないと思うんだよね。

ワルシャワって、パリやローマと違って日本人旅行者が少ないから、比例して日本語観光情報も少ない。
イ課長があれこれ情報収集してるうちに、たまたまこういう日本語パンフレットを発見することができた。
おそらくワルシャワ市観光局みたいなところが日本人観光客向けに日本語で作ったパンフレットで、
100頁を超えるその中身の充実ぶりはびっくりするくらい。そして、このパンフレットで「闘争と殉教の霊廟」という
モノの存在をたまたま知ったのだ、イ課長は。

ためしにGoogleで「闘争と殉教の霊廟」っていう日本語で検索してみる。
結果はこのパンフレットしかひっかからない(笑)。要するに誰も知らないんだよ。日本語で「闘争と殉教の霊廟」を
紹介したものって、このパンフレットしかないみたいで、本日のイ課長ブログはこの施設のことを日本語で紹介した
国内2番目の“文献”ということになる・・んじゃないかと思うのである。

そもそも闘争と殉教の霊廟ってナンなのか?
施設の名称と、イ課長のダ~ク志向から考え合わせると、反ナチ・レジスタンス闘争で死んだ戦士たちの
墓所か何かに思える。しかしちょっと違う。実はゲシュタポの旧ワルシャワ本部なんだよ。

なんでワルシャワにゲシュタポの本部が?!最初は驚いたけど、よく考えれば不思議はない。
ナチスはポーランドを支配したんだから、ドイツ秘密国家警察、すなわちゲシュタポの“ワルシャワ現地法人”が
あってもおかしくない。きっとドイツ国内以上に「反ナチ分子」を徹底的に弾圧したんだろう。それが残ってるの?
しかも例のパンフレットには「14歳未満入場不可」と書かれている。なんですかソレ。R14指定施設ってことですか?

ダ〜クな旅行という志向にぴったりの、ものすごくダ〜クな歴史が詰まってそうな施設ではないか。
ここはぜひ行きたい。パンフレットでこの施設の存在を知った瞬間にそう思った。
日本で誰も知らない施設なら、このイ課長がそれをブログで詳細に紹介してくれようじゃねぇか。

例のパンフレットに闘争の殉教の霊廟の住所は書かれていた。
しかし、それがワルシャワのどこにあって、そこにどうやって行くかを調べるのは簡単ではなかった。
市電の駅が近くにあるみたいなんだけど、イ課長が行ったときはその路線が運行してないみたいで(理由は不明)
結局、ちょっと離れた地下鉄最寄り駅まで行き、そこから地図を見ながら歩くという方法をとった。

幸いGoogle Mapの地図は正確だったようで、ちゃんとソレらしき通りにブチ当たった。
この通りに面した大きな建物の一角にあるはずなんだよ、闘争と殉教の霊廟が。
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ありました。発見しました。
ものすごく立派な建物で、現在はポーランドの文部省が入ってるらしい。要するにワルシャワのゲシュタポ本部って、
東京で言えば霞ヶ関みたいな官庁街に置かれていたんだろうと推測される。戦禍をくぐってよく残ってたねぇ。
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入口はこんな。文部省入口ワキに小さな扉があるだけで、ここにそういうモノがあると知っていればわかるけど、
道行く人がフと気づき、興味をひかれ、中に入ってみる、なんて可能性はまずない。
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恐る恐る中に入ってみると、やけに暗くて、ワキに小部屋。そこにオバチャンが一人。
どうやら入場料が必要みたいだ。ちなみに、入場料は8ズロチ、日本円で(当時なら)200円くらい。

入場料を払って中に入ると・・・うわ・・・だーーーーれもいない。見学者はイ課長一人?
ワルシャワ蜂起博物館の、あのにぎわいとは全然違う。地元の人の間でもあまり知られてないんだろうか?
日本人が誰も知らなくても無理はないよな。

おっと、いきなり鉄格子。
ここはゲシュタポ本部に併設された留置場でもあったわけ??
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おそらく、旧ゲシュタポ本部のかなりの部分は現在ポーランドの文部省として使われてるんだろうけど、
その中で「尋問・拷問・留置」という、特にダークな業務を担当したエリアだけは昔のまま残してるっていう
ことなんだと思う。よくわからないけど、ここで殺されたポーランド人もたぶん多いんだろう。そうでなきゃ
「殉教の霊廟」なんて名称にしないもんな。うーむ、中はどんなンなってんだ?

・・しかし、長くなったから、内部の詳細は次回だ(しょうがないぢゃないかよ!)。


  
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by tohoiwanya | 2013-07-08 00:30 | 2012.06 東欧・北欧旅行 | Comments(6)