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2011年 07月 06日

ベートーヴェンの町へ

ベートーヴェンの話を続けよう。
ハイリゲンシュタット訪問のテンマツを書く前に、もう少し説明が必要なのだ。

今回のウィーン旅行は、とにかくベートーヴェンに縁があった。
前回書いたように「フィデリオ」が初演され、ベートーヴェン自身も一時住んでいた
アン・デア・ウィーン劇場はイ課長たちが泊まったホテルの真ん前。しかもそのホテルの名前が
「ホテル・ベートーヴェン」っつうんだから(ホテルについてはいずれ詳しく書く)。

そのホテルを出て、カールスプラッツを抜けてリング通りを反時計周りにぶらぶら歩くと、
写真では何度も見たことのある有名なベートーヴェンの銅像があった。
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ベートーヴェンの写真は残ってないが、肖像画や銅像はたくさん残ってる。
この銅像もそうだけど、我々のイメージにあるベートーヴェンって、大体やや長髪で、
口をヘの字型に曲げて、気難しそうな顔をしている。笑った顔なんて皆無だ。
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実際、彼は常に不機嫌で、カンシャク持ちで、服装・身なりに気を使わなかった人らしい。
こういう性格じゃ、円満な恋愛生活とは縁遠くなるのも仕方ない。惚れた女にフラれて
恋愛に絶望する。おまけに耳がどんどん聞こえなくなって作曲家人生にも絶望する。

生きるのがホトホトいやになったベートーヴェンは温泉療養に来ていたウィーン郊外・
ハイリゲンシュタットの町で(当時は田舎の村だったんだろう)1802年に遺書を書いた。
これが有名な「ハイリゲンシュタットの遺書」なのだ。

内容は詳細には知らないけど、とにかく「何もかも絶望的でダメダメで死にたくなっちまった」けど
「自分の中の芸術的衝動は燃えてるんだぜ」とか何とか、そんな内容(間違ってたらゴメン)。
「遺書」っていうけど、実際には甥にあてた手紙だったらしい。

ハイリゲンシュタットの遺書はベートーヴェンの作曲家人生において大きな転機になったのは
確かで、その後彼はバリバリと名作を発表し始める。遺書を書いた翌年には前回書いた
アン・デア・ウィーン劇場に住んで「英雄」や「クロイツェル・ソナタ」を作曲したりしたわけだし。

ニンゲン、行き詰った時には死んだ気になって遺書を書いてみると気分的にカタルシスが得られ、
前向きになれるのかも。イ課長もこんなブログ書いてないで「浦安の遺書」でもしたため、
心を入れ替えて仕事に励むべきかもしれない。

…と、まぁそんな具合で、ハイリゲンシュタットという土地とベートーヴェンとは
切っても切れない深いつながりがある。
この町にベートーヴェンにまつわるアレやコレやが多いのも当然といえば当然で、
「遺書の家」や「第九を書いた家」、さらには交響曲第6番「田園」の構想を練りながら歩いた
小川沿いの小道なんてものまで残ってるらしい(下の写真は前回の再掲)。
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さて。
そういうわけで(あああ、例によって長い前置き)、ウィーン到着翌日の6月5日の日曜の午後、
我々夫婦はハイリゲンシュタットに行ってみたわけだよ。やっと冒頭部分に話が戻った(笑)。

今回の旅行でハイリゲンシュタットに行こうというのはトホ妻が希望していたことで、
ヤツは30年前(学生時代の夏季短期留学で)一度行ったことがあるらしいんだよね。
イ課長はもちろん初めてで、何の知識も土地カンもないし、この辺の詳細な地図もない。
つまりトホ妻の30年前の記憶を手がかりとして行ったんだけど、これほど頼りないことはない。

結局我々はこの日、最後の方ではモノを言う気力もなくなるほど歩きまくるハメになった。
いわばイ課長&トホ妻の「人サマにはお勧めできないハイリゲンシュタット観光コース」。
反面教師の意味を込めて、次回以降そのテンマツを書き記していきたいのである。
(次回からやっと本題かい!!)




by tohoiwanya | 2011-07-06 06:42 | 2011.06 ウィーン旅行 | Comments(0)


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