2015年 08月 21日

ダーク・ツーリズムに向けた予習

さて、それではプノンペンに話を戻そう。

プノンペンのトゥール・スレンのことを書き始めようと思っている。
トゥール・スレンって、ポル・ポト支配の時代に反革命分子を収容し、拷問し、殺した施設で、
現在は「トゥール・スレン虐殺博物館」(Tuol Sleng Genocide Museum)という名称になってる。
当時は「S21」と呼ばれてた。これは地名や施設名っつうより“機関”の名称なんだろう。
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プノンペンに行くまでイ課長がポル・ポトについて知ってたことなんて「カンボジアの独裁者で、
大量虐殺の首謀者」ってことくらい。どういう経緯で彼が権力を握り、何を理由に自国民を大虐殺したかも
実はロクに知らなかった。

こんなことではいかん。プノンペンに行ったら久しぶりのダーク・ツーリズムでトゥール・スレンに
行くつもりだってのに、ポル・ポト大虐殺の経緯・背景なんかを全然知らねぇじゃねぇか、自分は。

そこで、図書館で本を借りたりしてドロナワで予習した。予習してみるとイ課長が中学生くらいの頃に
「ニュースで名前だけは聞いた記憶があるなぁ」っていう人名がけっこう出て来るんだよね。

カンボジアにおける大虐殺の背景にはベトナム戦争があり、さらに米中ソの思惑も絡むから
非常に複雑だ。しかしトゥール・スレンの話を書く前にちょっと整理しておきたい。

ベトナム戦争から始めよう。
1970年頃。ベトナム戦争のドロ沼にはまっていた米軍は北爆で北ベトナムを叩きつつ、
南ベトナム領内にいる民族解放戦線、俗にいう「ベトコン」も殲滅する必要があった。
北ベトナム政府は隣国のラオスやカンボジアを迂回して南とつながる補給線(ホーチミン・ルート)を
持ってて、これがある限りベトコンはいつまでも持ちこたえる。だから米軍としてはラオスや
カンボジア領内に侵攻してホーチミン・ルートをブッ潰したかったわけだ。

当時カンボジアの元首はシアヌーク。この人の名前は聞いたことがある人が多いだろう。
シアヌークは当初中立政策をとって自国をベトナム戦争に巻き込ませまいとし、その後は
反米色を強めて米国と断交までした。しかし彼の国内政権基盤は強固とはいえず、反シアヌークを唱える
右派だ左派だってのが勢いづいてた。カンボジアもけっこう混乱してたわけだ。

そんな折、シアヌークが外国訪問中にとうとうクーデターが起きた。
首謀者はロン・ノル将軍っていう人で、完全な親米派。シアヌークは自国に戻ることもできなくなり
中国に仮住まいすることになる。米国はおおっぴらにカンボジア内に侵攻し、ホーチミン・ルートを
ドカスカ攻撃してはみたけど、悪化した戦局を好転させるほどのインパクトはなかったらしい。
「ろんのる将軍」って当時のニュースでよく聞いたよ(下がロンノル、出典Wikipedia)。
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米国べったりのロン・ノル政権に対し(実際、彼は後に米国に逃げてそこで死ぬ)「反ノン・ノル」を掲げて
戦う連中も出る。その中心勢力がクメール・ルージュ(赤いクメール)、つまりポル・ポトらが率いる
共産主義勢力だったわけだ。ロン・ノルのクーデターで国を追われたシアヌークはクメール・ルージュと
こんどは「反ロン・ノル」で手を結ぶ。

重要なのは、この時点ではどちらかというと「正義はクメール・ルージュにあるかな」と思えることだ。
ロン・ノル政権はほぼ米国の傀儡。それを倒すために戦うクメール・ルージュは米国傀儡政権から
カンボジアを取り戻す正義の勢力・・と思いたくなる。しかも国民に人気の高いシアヌーク国王と
共闘してるわけだからね。だが後から考えればこの時シアヌークは悪魔と握手していたことになる。

クメール・ルージュって共産主義なわけじゃん?共産主義者が王様と共闘するってこと自体、
異常な組み合わせだ。シアヌークは結局のところクメール・ルージュに利用されたにすぎず、後に
プノンペンの王宮に幽閉されることになる(下がシアヌーク、出典は同じくWikipedia)。
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さて。いよいよベトナム戦争で敗色濃厚となった米国はスタコラ撤退。そうなると南ベトナム政府軍は
たちまちヘナヘナになり、1975年4月30日にサイゴンは北ベトナム軍によって陥落することになる。
世界の注目は「サイゴン陥落・ベトナム戦争終結」に集まってたし、その時のことはイ課長も
ニュースや新聞で見て覚えてる。しかしだ・・・

実はその2週間ほど前、1975年の4月17日にプノンペンはクメール・ルージュによって陥落してたのだ。
クメール・ルージュの兵がプノンペンの街に入ってきた時、市民たちは一応歓迎したらしい。
「米国傀儡政権からカンボジアを解放」っていうイメージを市民たちも多少は持ってたんだと思う。
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問題はここからだ。プノンペンを制圧したクメール・ルージュはその日のうちにプノンペン市民を町から
追い出し始めた。「米軍の空襲がある」とかウソついて地方に強制疎開させたのだ。しかも徒歩で。
4〜5月って東南アジアが一番暑い季節だ。この時期、長距離をひたすら歩いて強制疎開させられ、途中で
身体の弱い老人や子供や病人などがバタバタと死に始める。
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住民が追い出されたプノンペンはカラッポだ。本当にカラッポになるまで完全に住民を追い出した。
誰もいなくなってゴーストタウン化したプノンペンの映像が世界に報道されたのはずっと後だったけど
テレビであれを見たときはちょっと信じ難かったよなぁ。
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でも、プノンペンでそんな陰惨な事態が起きてることを世界が広く知ったのはずっと後の話。
さっきも言ったように1975年4月下旬の世界中の注目は「いよいよサイゴン陥落間近」なわけで、
カンボジアがどうなってるかという情報はほとんどなかった。サイゴンの2週間前に実はプノンペンが
陥落してたってことも今回の予習によってイ課長は初めて知ったのだ。
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多くのカンボジア人はこのあと4年近くにわたって真の地獄を経験することになる。
というか、それだけの地獄期間を経験して生き延びた人はある意味幸運だったわけで、多くの人は
途中で殺されたから地獄経験期間はもっと短かったことになるが・・

しかし長くなったから次回に続く。予習だけで続き物っていうんだから先が思いやられるけど、
これについては書いておきたいのだ。
(ちなみに、出典説明のない写真はイ課長がトゥール・スレンで撮ってきた展示写真です)

 
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by tohoiwanya | 2015-08-21 00:12 | 2014.09 ベト・カン・タイ旅行 | Comments(4)
Commented by hanatomo31 at 2015-08-21 20:29
私はこのあたりの歴史はものすごく疎く、噛み砕いて説明して下さるこの記事の続きに期待しています。

ダークな行き先もこれにて解禁ですね。
Commented by tohoiwanya at 2015-08-22 00:12
>このあたりの歴史はものすごく疎く

ハナトモさん:
ほとんどの人は知らないと思います。ポル・ポト時代って私で言えばちょうど
高校生〜大学生の頃の話なんですけど、当時ベトナム戦争について書かれた本は
いっぱいあって多少は読んだけど、カンボジア情勢を書いた本なんてなかった。
ヨワイ50を過ぎて「そうだったんだぁ・・」って状態ですよ、私も。
Commented by Bきゅう at 2015-08-23 23:52 x
わしも、ぽるぽとせいけんと、しあぬーくデンカくらいしか聞いたことないかも。やはり、基本が、国どうしの戦争でなく、国内の内戦という位置づけだったから、ニュースにはなりにくかったように思いますう。
Commented by tohoiwanya at 2015-08-24 00:23
>国どうしの戦争でなく、国内の内戦という位置づけだったから

Bきゅうさん:
ベトナム戦争だけでも米軍だ北ベトナム正規軍だ解放民族戦線だで、同時のコドモには
よくわからなかったけど、カンボジアになるともうチンプンカンプンもいいとこ。
ただ、ポル・ポトが政権をとったトタンにカンボジアがものすごい鎖国状態になって
情報が全然入ってこなかったっていうのも事実みたい。カンボジアから逃げ出してきた
難民の話も、あまりに信じ難いんでかなりの人は誇張したホラだと思ったみたい。


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