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2013年 09月 02日

クラクフ、ゲットー英雄広場

雨のクラクフ・ダークな旅。
カジミェシュ地区の次に向かったのは、ビスワ川をわたったところの市電の停留所。
この停留所はリポヴァ通りにある「シンドラーのホーロー工場」の最寄駅なのだ。

シンドラーの工場はここから歩いていけるし、ちゃんと見学時刻も申し込んである。
でもまだたっぷり時間はあることだし、まず停留所に面したゲットー英雄広場を見学しようではないか。

ここも第二次大戦におけるユダヤ人の悲惨な運命を象徴する場所のひとつといえる。
もっとも、ただ見ただけじゃ「いかにも悲惨」という印象は全然ない。
椅子だけがいくつもいくつも置かれてて、モダンアートの展示広場か何かにすら見える。
クラクフ、ゲットー英雄広場_f0189467_1535420.jpg

前回見たカジミェシュ地区に古くから住んでいたユダヤ人たち、まずビスワ川の対岸にある
このあたりのユダヤ人ゲットーに強制移住させられた。そしてさらに、ここも強制退去させられて
強制収容所に強制的に送られるわけだ。すべてに「強制」の文字がつく。

だから「シンドラーのリスト」のゲットー強制退去の場面がカジミェシュ地区で撮影されたってことは、
実は「ゲットー退去の場面を、ゲットーに行く前に住んでた地区」で撮ったっていうことになる。
ユダヤ人ゲットーらしき面影を残す建物は、今やこの辺にはほとんど残ってないらしい。
クラクフ、ゲットー英雄広場_f0189467_1565282.jpg

ユダヤ人たちは強制収容所に送られる際にこの広場に一時集められた。
強制収容所送りになる前、一ヶ所に集められて待たされるっていうと、ワルシャワを舞台にした映画の
「戦場のピアニスト」が思い出されるけど、あれと同じようなことがクラクフの、この広場でもあったわけだ。

さて、この広場に来れば誰もが思うことだが、この椅子はナンなのだろう?
クラクフ、ゲットー英雄広場_f0189467_157105.jpg

調べたところでは、この椅子って、古い記録映画にまつわるものらしい。
カジミェシュ地区からゲットーにユダヤ人たちが強制移住させられた時のフィルムってのが残ってて、
中でも子供たちが学校の自分の椅子を頭に乗せてゾロゾロと歩いている場面は可哀想になる。
この映像が有名になったもんで、ユダヤ人の悲惨な運命を象徴するものとして椅子が置かれたらしい。

その動画がないかとYouTubeを探したら、ちゃんとあるよ。
下の動画の、2分04秒あたりに、椅子を運ぶ子供たちの可哀想な姿がちょっと写ってる。
ここに写ってる子供たちのうち、無事に戦後まで生き延びた子が一人でもいるんだろうか・・・?
  
      

ちなみに、後で気付いたけど、この古い記録映像の2分44秒あたりから、イ課長がたまたま撮った
この橋の当時の姿も写ってるね。映像を見てて「あ、この橋はもしかして」と思ったけど、間違いない。
クラクフ、ゲットー英雄広場_f0189467_15205870.jpg

昔からのユダヤ人街だったカジミェシュ地区からゲットーに強制移住。
そこからさらに強制退去させられ、働けるものはプワショフの強制収容所へ(ここは労働収容所だった)。
労働力価値のない者はそのままアウシュビッツへ(ご存知のように、ここは絶滅収容所)送られた。

そんなユダヤ人のダークな歴史が凝縮されたクラクフのゲットー英雄広場。
雨で椅子の上には水たまりができ、そこに降る雨粒の波紋が広がる。
クラクフ、ゲットー英雄広場_f0189467_1575854.jpg

この椅子を濡らすのはクラクフに降る雨か・・殺されていったユダヤ人たちの涙か・・
なーんて感傷的なフレーズが頭をよぎったりするのである。何せ天気がダークだからさ(笑)。
クラクフ、ゲットー英雄広場_f0189467_1583121.jpg

しかし、いかにフードつきコートとはいえ、冷たい雨にぬれ続けて、さすがに寒くなってきたよ。
シンドラーの工場の見学予約時刻(たしか11時にしたと思う)まで、まだけっこうあって、結局、
それまで屋根のついた市電の停車場で雨宿りせざるを得なかったイ課長なのでありました。
 

 

# by tohoiwanya | 2013-09-02 15:25 | 2012.06 東欧・北欧旅行 | Comments(2)
2013年 08月 31日

映画ヲタクの旅:「シンドラーのリスト」の“あの場所”

さてポーランドネタに戻るわけだが、本日はやや映画寄りの話。

アウシュビッツに行った翌日はクラクフで丸一日フリー。計画はいろいろあったんだけど、
まず最初は映画「シンドラーのリスト」の撮影に使われた“あの場所”に行ってみたんだよ。
建物の正確な名前を知らないから“あの場所”としか言いようがないのだが。
映画ヲタクの旅:「シンドラーのリスト」の“あの場所”_f0189467_23414037.jpg

この日のクラクフは朝からずーーーっと雨だった。
まぁダークな旅にふさわしい、ダークな天候といえるけど、寒かったねぇ〜。
地元の人たちも革ジャンとかで厚着してる。
映画ヲタクの旅:「シンドラーのリスト」の“あの場所”_f0189467_23415481.jpg

市電に乗って行ってみたのがカジミェシュ地区(発音が難しい)。この辺は旧ユダヤ人街だった。
「シンドラーのリスト」の印象的なシーンに使われた“あの場所”はこの一角にある。
あの映画をご覧になった方なら以下の説明で「ああ、あの場面の・・・」と思い出すかもしれない。

ドイツ軍がゲットーのユダヤ人たちを一斉に強制移送の時、あるユダヤ人母娘が混乱の中で、
「ドイツ軍協力少年」になった娘の同級生?の男子に偶然会う・・・っていうシーン、覚えてない?

男子はちょっと照れたように「・・・やぁ、ホニャンカ」って同級生に挨拶し(正確な名前は忘れた)、
「こっちなら大丈夫だよ」と言って、その母娘を建物の奥に連れてってあげる。お母さんは感謝して
「もうあなたもすっかり大人なのね」みたいなことを言う。

叫び声や悲鳴、銃声、軍靴の音、破壊音なんかが充満する強制移送の修羅場の中で、ここだけは
フッと静かな場面で、非常に印象に残るシーンだ。その場面の動画がないかと思って必死に探したら、
発見したよ。このリンクの動画の8分50秒からがそう。(どこかの国の言葉の吹き替え版みたい)

見れば一目瞭然。この場面で使われたのがここだ。カジミェシュ地区の、白壁のアパートの一角。
母親はこの階段の下に隠れて、自分を追って階段を下りてきた娘と抱き合う。
映画ヲタクの旅:「シンドラーのリスト」の“あの場所”_f0189467_23423890.jpg

白いアーチと、雨に濡れた石畳が美しかった。
こんなところ、誰もいないに決まってると思ってたけど、イ課長以外にもう一人、どこかの欧米人が
ここの写真を撮りに来てたね。映画ヲタクがクラクフに来て考えることって、似ているらしい(笑)。
車の音もほとんど聞こえず、ほんとに静かなところだった。
映画ヲタクの旅:「シンドラーのリスト」の“あの場所”_f0189467_23402040.jpg

このアーチのある場所はゲットー強制退去のシーンで何回か出てくる。
ほら、こちらのショットでも、奥の方に、このアーチが写ってるでしょ?
映画ヲタクの旅:「シンドラーのリスト」の“あの場所”_f0189467_23404291.jpg

映画では、このアパートを使っていろんな角度から何度も撮影してるのがわかる。
ドイツ軍がベランダからユダヤ人の家財道具を投げ落とすところもこのあたりで撮ってるよね。
映画ヲタクの旅:「シンドラーのリスト」の“あの場所”_f0189467_23421068.jpg

「シンドラーのリスト」に出てきた「あそこ」がカジミェシュ地区にあるのを知ったのは全くの偶然だった。
偶然だったけど、いざソレがあると知るとやっぱり見たくなって、それがカジミェシュ地区のどこなのか
突き止めるためにものすごい努力をした(笑)。実際見つけたときは嬉しかったねー。
ちなみにアーチを反対側からみるとこんな感じ。風情のある、きれいなところだよね。
映画ヲタクの旅:「シンドラーのリスト」の“あの場所”_f0189467_23435966.jpg

雨のクラクフ、ダークで、ヲタクな旅。
まず最初は軽め?の「シンドラーのリスト」のロケ場所を見に行ったわけだけど、イ課長はさらに
市電に乗って、次のダーク&ヲタクスポットに向かうのでありました。
 

# by tohoiwanya | 2013-08-31 00:11 | 2012.06 東欧・北欧旅行 | Comments(8)
2013年 08月 29日

デリーのリクシャーに乗ってみる

ポーランドネタを消化する中、本日は軽いインドネタをはさもう。

小型オート三輪のタクシーってアジアではよく見かける交通機関で、有名なのはタイのトゥクトゥク。
これがインドネシアではバジャイ、インドではオートリクシャーって呼び名になるけど、モノはほぼ同じ。
トゥクトゥクの語源がエンジン音なのに対し、リクシャーの語源はマジで日本語の「力車」らしい。
デリーのリクシャーに乗ってみる_f0189467_143952.jpg

こういう“個人営業交通機関”って、タクシーみたいにメーターがないから、乗車前にドライバーと
「ドコソコまでいくらで頼むよ」みたいな価格交渉せにゃならん。これが面倒。しかもガイジン相手だと
向こうは5倍くらいフッカケてくるのは珍しくないようで、それを英語で値切らにゃならん。
まぁ昔はバンコクやマニラの四輪タクシーだって、こんな感じなのが多かったけどね。

インドで一度だけ、そのオートリクシャーに乗ることができた。
例のチャンドニー・チョーク小冒険から地下鉄で帰ってきて、駅からホテルまで乗ったのだ。
行きは歩いたけど、帰りもまた20分歩くのダルいし、一度オートリクシャーに乗ってみたかった。

インドの街中ならそこらじゅうで見かけるオートリクシャー、競争相手が多いだけあって、
過当競争も激しいようだ。イ課長もこの時、それを体験することになる。

地下鉄のMarviya Nagarの駅を降りて、エスカレーターをのぼって地上出口。
地下鉄駅周辺にリクシャーが何台か停まってるのは行きに確認してたから、つかまえるのは
難しくないだろうと思ってたけど、価格交渉は自信がないなー。まぁそんなに長い距離じゃないし、
多少ボラれるのはしょうがないか・・・

・・・なんてノンビリ考えてはいられないのだ。
出口を出ると、たちまち6~7人くらいのリクシャワーラー(要するに運転手)にワッと取り囲まれる。

 フォーティ!   フォーティ!   フォーティ!フォーティ!
    フィフティ!     フォーティ!!
  フォーティフォーティ!!  サーティ!  フォーティ!!

ちょ、ちょっと待っちくり。すごいことになった。
リクシャワーラーたち、この駅を降りるガイジンなら、どうせ行き先はホテルやショッピングセンターのある
アソコだろうと決めてかかって(それは実際その通りだったのだが)運賃連呼。まさにイ課長の奪い合い。
価格交渉もヘチマもない。魚河岸でセリにかけられたマグロのような気分だ(笑)。

一人、「サーティ(30)」って言ったような気がしたから、声の方に向かって「サーティ?」って確認したら
「サーティ、サーティ!イェイ!」って、元気よくイ課長の腕をつかみ、他の競合同業者たちの間を縫うように
自分のリクシャーに連れていく。「ほーらオレ様は客を見つけたぜ、ざまぁみろ、どんなもんでぃ!」って感じで
鼻高々、喜色満面で連れていくんだよ。彼が良いリクシャワーラーか、悪徳業者か考える時間なんてないけど
一番安い料金を提示したのは確かだ。こうなった以上、彼のリクシャーに乗ってみようではないか。

オートリクシャーに乗って眺めるデリーの街。いやーインドに来ちまったなぁという気分が盛り上がる。
車体はえらくボロく、しかもよく揺れる。このクサリは何のためにあるのか?さっぱりわからない。
デリーのリクシャーに乗ってみる_f0189467_1104380.jpg

これはひょっとするとメーターの“残骸”か?
しかしインド広しといえども、メーター制のオートリクシャーなんてないはず。何のための装置なのか
これまたよくわからない。しかしどうせ作動してないようだから、考えてもしょうがない(笑)。
デリーのリクシャーに乗ってみる_f0189467_111495.jpg

行きは歩いて20分の距離。乗車時間はせいぜい5〜6分ってとこだったかな?
「ヒルトン」って言ったら、ちゃんとホテルの近くまで乗せてくれた。

彼が主張した料金は30ルピー。ぴったりのお金がなかったから50ルピー札を出したら、
ちゃんと20ルピーのお釣りをくれた。「お釣りがないよ」とか言われるかと思ったけど料金トラブルなし。
インドの悪徳リクシャーの話はヤマほどあるみたいだけど、意外に正直かつ良心的だ。

というわけで、インド出張で唯一のオートリクシャー体験は過当競争のおかげもあってか、
実に安く済んだのでありました。30ルピーつうたら(当時の相場で)45円くらい。こりゃ安いよ。

翌日、通訳さんにこの話をしたら、「イカチョさん、それ、ボラレてないよ」と請け合ってくれた。
悪い評判も多いインドのオートリクシャーだけど、かくのごとく過当競争の激しい業界みたいだから、
インドに不慣れなガイジンでも、意外に“地元料金”で乗れちゃうこともあるかもよ?


 

# by tohoiwanya | 2013-08-29 01:11 | 2012.10 インド出張 | Comments(0)
2013年 08月 26日

ポーランドのドライバー氏の思い出

アウシュビッツからの帰りのツアーバスでの話。
強制収容所に行ったことと同じくらい、この話を書きたかった。
(なお、本日の記事に関連した写真がないので、クラクフの街の写真を適当に挿入しております)

当然のことながら、ツアーバスにはいろんなホテルの宿泊客が混在して同乗してる。
バスはそのうちの「主なホテル」にしか停まらないから、イ課長は自分のホテルに近そうな、
どこかの停車ポイントで降りなきゃならん。帰りのバスで女性係員からどこで降りたいか、聞かれた。

停車ポイントはいくつかあるようだけど、よく聞き取れないし、ホテル名を言われても場所がわからん。
中に「シティ・センター」っていうのがあった。たぶん旧市街の中心部のことだろう。
街の中心部なら、どこであってもホテルまでは歩いて帰れるだろうから「シティ・センター」と答えた。

クラクフの街に入ってきたバス、最初に停まったのがヒルトンだったかな?それ以降、停車するたびに
ドライバーがドスの聞いた声でホテルの名前を言う。だから彼が「シティ・センター」って言ったところで
イ課長は降りればいいわけだ。
ポーランドのドライバー氏の思い出_f0189467_00610.jpg

バスが停まるたびにドライバー氏はホテルの名前を叫び、何人かの乗客が降りる。
だんだんバスの中の乗客は少なくなっていく。シティ・センターはまだかな?

ところが、外の景色はどうも街の中心どころか、だんだん郊外っぽい雰囲気になってきた。
この辺からイ課長は不安になってきた。どうもオカシいぞ?どこかで降りそこなったのかもしれん。
しかしこのドライバー氏、まだ「シティ・センター」なんて言ってねぇはずだけどなぁ?

いまやバスはすっかり街を抜けちゃって、残った乗客はイ課長含めてたったの3人。
ここでドライバー氏は3人の乗客に「アンタら、どこで降りんの?」って感じで尋ねてきた。

イ課長以外の二人はナニ語かわからない言語でナントカって答えてた。
イ課長はしょうがないから英語で「シティ・センター・・・」と答えるしかない。

それを聞いたドライバー氏、いきなりすごく怒り始めた。
ポーランド語で、おそらく何か罵りの言葉を叫び、ハンドルを叩いて怒ってる。
あらーーーー、やっぱりイ課長はもっと早く降りなければいけなかったみたいだ。

このドライバー氏が何回目かの停車のとき「ノボテル・ナントカカントカ」って叫んだんだけど、
今にして思えばあの「ナントカカントカ」の部分がポーランド語で「シティ・センター」って言ったか、あるいは
ポーランドなまりの聞き取りづらい英語でそう言ったのかもしれない。しかし全ッ然わかんなかった。

しかしドライバー氏の身になれば怒りたくもなる。
バカなガイジン客が、とっくの昔に通り過ぎた停車場所で降りたいですぅ、なんて今頃ホザイてるんだから。

二人の客は、クラクフ郊外のどこかのホテルで降りた。残るはイ課長だけ。
「もう送迎は終わり!オマエもここで降りな」と言われる思った。しょうがない。そしたらホテルでタクシーを
呼んでもらって市街に戻るしかない。街からけっこう走ってきたからタクシー代かかるだろうなぁ・・。
ポーランドのドライバー氏の思い出_f0189467_004522.jpg

ところがこのドライバー氏、相変わらずブリブリ怒りながら「オマエは座ってろ!」みたいなことを言う。
あらら、ひょっとして、市街まで戻ってくれるの??

バスはたった一人の乗客・イ課長を乗せてクラクフ市街に逆戻り。
けっこう距離があったよ。最後のホテルから10分~15分くらい走ったと思う。これは申し訳ないことをした。

しょうがないから、イ課長はバスの中で「地球の歩き方」のポーランド語会話のページを開き、
ある言葉を一生懸命おぼえた。これを最後にドライバー氏に言おうと思ったのだ。
ポーランドのドライバー氏の思い出_f0189467_045534.jpg

やがて、バスが停まる。
駅の近くにあったショッピングセンターが見える。ドライバー氏が「ほら、ここから先はわかるだろ?」」みたいに
言った(んだと思う)から、ウンウンとうなずき、今覚えたばかりのポーランド語を生まれて初めて使った。


  「あー・・・プシャプラッシャム


これ、ポーランド語の「ごめんなさい」なんだよ。
シティ・センターと聞こえなかったとはいえ、イ課長が降りそこなったために余分な労働を強いられた
彼には申し訳ないことをした。ここは素直に謝っておこうと思ったのだ。
こういうところ、イ課長もいかにも「日本人的」かも(笑)。

イ課長に謝られたそのドライバー氏、どうしたと思う?
ムスッとしながらも「まぁいいよ」てな顔でうなずく、というのがイ課長の予想だった。

ところが「ゴメンナサイ」を聞いたこのドライバー氏、突然ものすごく照れはじめたんだよ。
左手で顔を覆い、笑いながら右手でイ課長の方をハタくような仕草を見せる。
「オマエ、バカ、なに謝ってんだよ、いいって、いいから、トットと降りろ、バカだな」って全身で言ってる。
さっきまでブリブリ怒ってたけど、このドライバー氏、実はすごくいい人なんだよ。

照れつづけるドライバー氏に、さらに「ジンクェ(ありがとう)」と礼をいい、手を差し出したら握手してくれた。
彼は相変わらず照れ笑いしながらの握手だ。でもこんなに嬉しかった握手はない。

「ポーランド人、親切で、素朴で、照れ屋で、いい人ばかり」っていうことを、イ課長はこのブログで
何度も書いた。その印象を決定的にしてくれたのが、このドライバー氏であることは間違いない。
アウシュビッツに行って重苦しかった気分を、このドライバー氏が最後に嬉しい気分にしてくれた。

バスを降りそこなったバカな東洋人の客がいてさぁ、しょうがねぇからまた街まで送ってやったらよゥ、
降りる時にポーランド語で「ゴメンナサイ」なんて言ってやんの。ったく、思わず笑っちゃったぜ・・

・・てな感じで、あのドライバー氏もイ課長のことをちょっとでも覚えててくれたら嬉しいなぁ。
少なくともイ課長はポーランド語の「ごめんなさい」は、生涯覚えてると思うよ(笑)。

  

# by tohoiwanya | 2013-08-26 00:06 | 2012.06 東欧・北欧旅行 | Comments(15)
2013年 08月 24日

ビルケナウ強制収容所 その3

今日で終るからね、強制収容所のハナシは。

ビルケナウ強制収容所の一番奥まで行った見学者ツアー。
帰りは線路から少し離れた、居住棟がズラリと並んだ原っぱを通って戻ってくる。
この時点で、イ課長は(おそらく見学者たち全員も)精神的な体力は使い果たしている(笑)。

先導していたガイドさんが、英語で何か言いながら、ある建物の中にひょいと入る。
見学者たちもゾロゾロと中に入ってみると・・・

ははぁ~、これって収容者居住棟か。
中はこんな風になってるわけね。
 ビルケナウ強制収容所 その3_f0189467_142271.jpg

映画「シンドラーのリスト」の中でも、夜、収容所のベッドに入った状態で収容者たちが
自分たちの“今後の運命”を相談するシーンがあったけど、あのシーンでは収容者たちは
全員通路ガワに枕をもってきて、通路をはさんで話をしていた。

実物をみるとその様子がよくわかる。
なぜかっていうと、ほら、寝台の板は通路側(頭の方)から窓側(足の方)に行くに従って
ゆるーーく傾斜してるからだ。頭を低くして寝るヤツはいないだろうから、どうしたって
通路側に頭を持ってくることになる。ふーむ、最初っからそういう設計になってるんだねぇ。
 ビルケナウ強制収容所 その3_f0189467_143924.jpg

窓ごしの光に照らされた寝台の板がやけになまなましい。
この上に布団を敷いて寝た・・とは考えづらいよなぁ。貨車で輸送される収容者が自分で
布団やマットレスを運んだとは思えないし、収容所から支給されたとも思えないよなぁ。
ワラとか、ボロきれとかを敷いて、なんとか“ソレらしく”したのかなぁ?
 ビルケナウ強制収容所 その3_f0189467_154846.jpg

ポーランド、夏は涼しいだろうけど、冬はそれはもう寒かったはずだ。
こんなところで、腹ペコで、ガリガリに痩せて、身を寄せ合っかろうじて暖をとったのか。

冬は寒い土地だけあって、木造棟なんか一つもなくてぜんぶレンガ造り。
しかも、各棟には一つずつ暖房用の暖炉みたいなものがあったんじゃないかと想像される。

ビルケナウその1」で、カマドと煙突だけが残って墓標みたいに見えるっていう写真を載せたけど、
近くから見るとこんな感じ。建物の周囲の壁を支えた土台と、カマド(というか、暖炉?)と煙突だけが
残ってる。
 ビルケナウ強制収容所 その3_f0189467_183467.jpg

どうしてこういう具合になったのかよくわからない。ドイツ軍が撤退時に破壊していったのか、
それとも収容所を解放した連合軍がブッ壊したのか?いずれにしても壁や屋根は破壊しても
中の煙突と暖炉だけは残っちまったってことなんだろうなぁ。
・・てなことを考えながら、なおも草っ原を歩く見学者たち。心なしか足取りも重い(笑)。
 ビルケナウ強制収容所 その3_f0189467_152018.jpg

またガイドさんがひょいと別の建物の中に入っていく。今度はナンだ?

うわーーーーー。トイレです。収容者用のトイレの跡。
仕切りもヘチマもない、出すべきモノだけ、とにかく出せっていうようなトイレだ。
 ビルケナウ強制収容所 その3_f0189467_18578.jpg

ガイドさんの説明によると、当時の収容所で最も貴重品とされていたものの一つが
トイレットペーパーなんだって。収容者同士の間でトイレットペーパーをあげる、もらうって行為は
もう本当に大変なプレゼントだった(・・・というようなことを説明していたんだと思う)。
 ビルケナウ強制収容所 その3_f0189467_191686.jpg

そして、ようやく見学者は最初の「死の門」のあたりに戻ってきた。
とにかく、アウシュビッツ・ビルケナウ日帰り見学ツアーは終ったのだ。
あの赤毛のガイドさんとはここでお別れ。
 ビルケナウ強制収容所 その3_f0189467_19338.jpg

この日歩いた距離は相当なもののはずで、足も疲れたけど精神的疲労はさらに大きい。
帰りのバスの中もみんな静かで、疲れて寝てる人もいた。

しかしイ課長はさすがに眠れなかったよ。
このツアーには昼食がつかないから昼飯ヌキだったわけだけど、空腹も感じない。
十分予想されたこととは言え、やはりアウシュビッツ体験はそりゃーもうダークで重かった。
「自分が生きてることに感謝しよう」的な、前向きな気分にもなれない。
この重さをどうしたらいいのだ・・・と思いながらボンヤリとポーランドの風景を眺めた。

はぁーーーーー。お疲れ様でした。
読む方も書く方も疲れたアウシュビッツ・ビルケナウ強制収容所訪問記。
最初の訪問スタンス表明や、バスに乗り遅れた話を含めて勘定したら、今日で9記事めかよ。

ただね、実はこの帰りのバスでちょっとしたデキゴトがあったんだよ。
イ課長にとってはこの旅行で最も忘れがたい出来事の一つと言っていい。

いわばアウシュビッツ訪問記の「付録」として、次回、その話を書こう。
それは全然暗い話じゃないから、安心してくれたまえ(笑)。


  

# by tohoiwanya | 2013-08-24 01:10 | 2012.06 東欧・北欧旅行 | Comments(8)