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2015年 09月 10日

トゥール・スレン虐殺博物館 その5

さー、のどかなプノンペン散歩ネタを二つ続けて油断?させたところで、
トゥール・スレン最後のダークネタに戻ろうか(これで最後だから勘弁しちくり)。

実はトゥール・スレンを見学した後のイ課長の中には何となくモヤモヤが残っていた。
ポル・ポト体制の異常な残虐さに対するモヤモヤじゃなく(まぁそれはそれで当然あったわけだが)
あの施設そのものの「感じ」に対するモヤモヤだ。

地元の中学生たちがゾロゾロ見学なんて風景はなくて、見学者は外国人旅行者ばっか


トゥール・スレンの続き物の最初の記事でイ課長はこう書いた。
普通に考えれば、こういう施設は平和教育・反戦教育のために積極的に活用されるはずで、
カンボジアの明日を担うコドモたちがいっぱい見学に来てて不思議はないはずだ。
実際、アウシュビッツには地元ポーランドに限らず欧州のいろんな国の学校の生徒が見学に来てるし
修学旅行とかで広島や長崎の原爆資料館を見学する日本の子供も多いはずだ。

まぁトゥール・スレンの場合、人骨の実物とか死体写真とか、けっこうアレな展示もあるから
子供にはちょっとアレかな・・しかし見学者が外人ばっかで、地元の人の姿が全然ないっていうのは
ちょっと意外で、それがモヤモヤにつながっていた。
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しかし後付け知識を仕入れた上で振り返ってみると「地元の人があまり見学に来てないな」という
イ課長の印象はトゥール・スレンの根本的な問題を表してるって気がしてくるんだよ。これには
以前に「予習その2」で書いた内容が関わってくる。

ベトナム軍の侵攻のおかげでカンボジア人たちはポル・ポト支配から解放された。
しかし国連はじめ米、中、日その他多くの国々はポル・ポトを倒したヘン・サムリン政権を
「ベトナム傀儡」だっていうんで認めず、ポル・ポトを正式なカンボジア政府として承認し続けた。
それに対し、ベトナムはカンボジアで何があったかを一生懸命世界に訴えた・・って書いたよね?
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問題はまさにここだ。
要するにトゥール・スレンって、カンボジア人自身が博物館として残そうとしたんじゃないんだよ。
ベトナムが自国軍のカンボジア侵攻を正当化するために作った施設なのだ。そこには当然、
「見てよほら、ポル・ポトってこんなに残虐だったんだぜ?!」というベトナム側の政治宣伝目的が
あったのは否定できない。実際、ベトナム軍はプノンペンからポル・ポト派を追い出した1979年1月から
わずか1か月後にはトゥール・スレンを外国報道陣に公開したらしいからね。

ポル・ポト派はこんなにヒドかった、そんなヤツらを追い出すために攻め込んだベトナムの行動は正当。
ベトナム側にすればそう主張したかったはずだ。そしてトゥール・スレンこそがその「ヒドさ」を立証する
格好の証拠物件だったこともまた確か。ここを外国のプレスに見せ、世にも残虐なポル・ポト派の実態を
世界にアピールしようとしたわけだ。

しかし何度もいうけどそれはカンボジア人自身の意思じゃない。ベトナム側の思惑だ。
カンボジアの為政者の残虐さを訴えるためにベトナム作った施設。そういう施設をだよ?果たして
カンボジア人自身が自国の子供たちの平和教育に積極的に活用しようと思うだろうか?
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仮に、ある日本人為政者が日本人を大量虐殺したとしよう(仮に、ですからね)。
その恐怖時代が仮に(何度も言うけど仮に、ですよ)中国軍の日本侵攻によって終焉を迎えたとしよう。
そのあと、東京にあった日本人虐殺施設を中国軍が展示施設として公開したと考えたら、どう?
「日本の支配者はこんなに残虐だった。それを攻め滅ぼした中国軍の日本侵攻は正しかった」という
政治宣伝目的を帯びた施設。

さぁ、日本人はそこを見学しようと思うでしょうか?
次世代の平和教育のために子供たちを積極的に見学させようとするでしょうか?

広島原爆資料館にしても、南京大虐殺紀念館にしても、それらは全て「後からその国の人」が作った。
でもアウシュビッツは違う、と昔書いた。アウシュビッツはポーランド人が作ったわけじゃない。
しかし、あの忌まわしい施設を敢えて残そう、後世に伝えようと思ったのは「その国の人」、
つまりポーランド人自身が中心だったはずだ。

トゥール・スレンも「忌まわしい記憶そのもの」の施設であるという点ではアウシュビッツと同じ
稀有な施設と言っていい。しかしその施設の設立趣旨はアウシュビッツとはだいぶ違う。
忌まわしい記憶の染みついた施設としてトゥール・スレンを残し、公開しようと考えたのは
自分たちじゃない。自国に侵攻してきた「隣りの国の人たち」なのだ。
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そう考えると、確かにトゥール・スレンの展示内容はかなり「残虐さ」が強調されてる部分がある。
以前は「頭蓋骨でできたカンボジア地図」なんて悪趣味な展示すらあったわけだからね。もちろん、
現在はトゥール・スレンの展示内容管理はカンボジアがやってるはずだけど、最初にベトナム軍がここを
公開した時の“展示方針”が残ってるということはあるだろう。

上の絵を見るとわかるように、トゥール・スレンの中には全体が鉄条網で覆われた建物もあって、
その建物は現在でも鉄条網に覆われたまま残っている。
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前にも書いたようにポル・ポト体制下ではプノンペンは住民のいないゴーストタウンにさせられてた。
当時プノンペンで「人がいて、マトモに機能していた施設」って、一部政府機関、一部の大使館、
そしてこのトゥール・スレンくらいしかなかったらしい。
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鉄条網ごしに、いまは発展するプノンペンの街が見える。
しかし当時の収容者たちに見えたのは誰もいない、空っぽの、殺伐たる町だったはずだ。 
 
トゥール・スレン虐殺博物館。
それほど重要な観光物件もないプノンペンという街で、ダーク・ツーリズムという点では
ここは確かにダークな、必見の施設と言っていいと思う。

しかしイ課長自身のことを考えても、事前に“予習”したり、帰国後にさらに後付け知識を
仕入れることで、ここを見学したことの意義はさらに高まる。何も知らずにココに行っても
「うわー、ザンコクー、キモチわりーー」だけで終わってしまう可能性は高い。

ご自身で少し予備知識を仕入れてから見学すると、感じるところも多いはずだ。
まぁ、ダーク・ツーリズムって大体どこもそうだけどね。

ダークなトゥール・スレン見学についてはこれで完結です。例によってお長くなりました・・・。

 
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by tohoiwanya | 2015-09-10 00:10 | 2014.09 東南アジア旅行 | Comments(8)
2015年 09月 02日

トゥール・スレン虐殺博物館 その4

本日はトゥール・スレンにおいて、イ課長としては最も気分が暗くなった展示について書く。
ちょっと閲覧注意系の写真もある。見たくない人は早めにスクロールして下さい。


⑩死者の写真と部屋
ベトナム軍がプノンペンに入ってきた時、取るものもとりあえず敗走したクメール・ルージュ。
トゥール・スレンには彼らがほったらかした死体が残ってたって話は前に書いた。

その死体発見当時の写真も展示されている。
実際のところ、ここに収容された人の多くは「ここ」で殺されたんじゃなく、プノンペン郊外の
チュンエクという村で殺されることが多かったとされる。そこはただの野原で、大きな穴を掘り、
穴のふちで殺し、穴に落とし、穴が一杯になると埋めた。殺す側にすれば処理しやすい。
トゥール・スレンは拷問取り調べ、自白させたらチュンエクの“埋葬所”に運んで殺すという流れ。

しかしトゥール・スレンでも拷問のしすぎとか、人体実験とかで死体は発生した。
いずれ運んで埋める予定だったけど、ベトナム軍が入ってきたからほっぽらかして逃げたんだろうな。
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古い写真で不鮮明だからよくわからないけど、この写真に写ってる部屋やベッドはおそらく
今自分が見ているこの部屋、このベッドであることに気付く。窓や机の位置は発見当時に近づけてるし
ベッドの枠の模様なんかも写真と同じだ。
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⑪遺骨
殺された人の遺骨もたくさん残ってる。

上に書いた、チュンエク村の虐殺施設。そこは現在「キリング・フィールド」という名称で
トゥール・スレンと並ぶプノンペンの“観光資源”になっている(行かなかったが)。

そこには膨大な数の人骨を納めた慰霊塔兼納骨堂みたいなものがあるってのは知ってたけど、
トゥール・スレンにもにもこんなにたくさん人骨が展示されてるとは思わなかった。
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以前はここに「ドクロで作られた巨大なカンボジアの地図」なんて展示もあったらしいけど、さすがに
悪趣味という批判が多くて撤去。まぁ現在の人骨の展示も人によっては拒絶反応あるだろうが。


⑫収容者の写真
イ課長にとっては遺体写真や人骨よりはるかにキツかったもの、トゥール・スレンで最も見るのが
ツラかったのは膨大な数の収容者の写真だ。クメール・ルージュはここにしょっぴいてきた人間を
一人ずつ几帳面に写真を撮ってたようで、残ってたネガから死者たちの顔が復活した。
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まるでパスポート写真のように正面を向いて、鮮明な画像として残っている収容者たち。
ここに収容される時に撮られたってことは、彼らの人生における最後の写真ということになる。
これは文字通り彼らの「遺影」に他ならない。
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収容され、写真に撮られた時点でもう自分の運命を予感した人も多かったのかもしれない。
でもこの先のことが全然わからず、呆然としてたり怯えたりしてる人の顔も少なくない。
でもこの写真に写ってる人たちが全員殺されてるのは確かなのだ。
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彼らはみんな正面、つまりカメラの方を向いてるわけだから、必然的にその視線は写真を見てるガワの
イ課長の視線とぶつかることになる。つまり死者たちがみんなイ課長を見てるわけだ。
これはもういたたまれない気分になる。
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帰国後、ある本でこれら写真について書かれた文章を読んだ。その著者は写真を見た時の印象を
「最初はまったく腑に落ちないものだった」と言ってる。なぜかというと写真の中にはスパイという
言いがかりをつけるのもムリがありそうな子供や老人がけっこう混じってるからだ。
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その本によると、こういう子供って実は「反革命的」「スパイ」とされた人間の家族らしい。
反革命思想に染まったヤカラは一家根絶やしにするために老人だろうがコドモだろうが一家そろって
全員が収容され、全員が殺されたわけだ。
  

個人的にはこの「こっちを見てる収容者の写真」がトゥール・スレンで最も精神的負担が大きい展示だった。
アウシュビッツで見た靴や鞄の山はそれでもまだ“人格性”が希薄だから想像で補うって部分があったけど、
ここまでハッキリした、具体的な顔写真となるともう想像の余地はなんてない。
膨大な数の、個々の死者たちと対峙しなければならない。これはキツかったよ。
残酷でもグロでもない、ごく普通の「顔写真」だからよけいにキツい。

トゥール・スレン虐殺博物館。こういうところなのである。
これでようやく長く暗かった続きもの記事も完結した・・・と思うでしょ?

ところが恐ろしいことにまだ続きがある。いや、展示内容は大体紹介し終えたんだけど、
トゥール・スレンの抱える暗い問題についてはまだ書いておきたいコトがあるのだ。
でも、とりあえず一回か二回はフツーの記事をはさんで少し雰囲気を変える予定だから
お読みの方々も少し安心?して欲しいのである。

 
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by tohoiwanya | 2015-09-02 00:06 | 2014.09 東南アジア旅行 | Comments(0)
2015年 08月 31日

トゥール・スレン虐殺博物館 その3

ウチも最近はすっかり暗黒ブログ化した感があるな。
しかしそれでも書くトゥール・スレン虐殺博物館展示内容。今日はまたさらに重苦しい話になる。


⑧看守たちの写真
トゥール・スレンにおいて収容者の拷問その他の実務にあたった看守たち。
ポル・ポト体制のキモチ悪さを象徴するように、看守たちはほとんど10代のコドモばかりだった。
以前に書いたように、子供の頃から洗脳教育された異常なコドモ革命闘士、コドモ看守たち。

コドモ看守の写真はたくさん残ってる。全員同じ帽子をかぶり、笑顔を見せている者もいる。
まだ幼さ丸出しの彼らが革命洗脳教育をうけ、拷問技能に関するスキルを訓練されたうえで
トゥール・スレンで働いてたわけだ。
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ポル・ポト体制下では学校も病院も全て閉鎖され、医者や教師はインテリだから殺された。
病院もなけりゃ医者もいないという状態で、たとえば農村地域で強制労働させられてる誰かが
病気になった場合どうしたのか?放置された?その方がよかったかもしれん。

そういう場合、コドモ看守と同じような急ごしらえの「コドモ医者」が医療行為にあたったらしい。
もちろんド素人だから病気なんて治せっこない。内容的には真似ごと、お医者ごっこのレベルだろう。
実際、家族が「注射されたとたんに死んだ」なんていうカンボジア難民の証言は少なくないのだ。
理不尽な強制労働のあげく空腹と疲労で病気になり、医療技術ゼロのコドモ医者にかかって死ぬなんて、
もはやグロテスクな悪夢そのもの。
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女性の看守もいた。こちらもみんな若い。
モノの本によると当時「ポル・ポト体制側女子」のヘアスタイルは横分け+首の後ろでざっくり切った髪型に
決まってたらしい。ここで一番左の列の、下から2番目に写ってるゴツい顔の女性を記憶しておいていただきたい。
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看守みたいな、ポル・ポト体制下における“体制側”の仕事に就いてた者って、クメール・ルージュが
政権をとる前からポル・ポト派の支配下にあった「解放区」の住民たちで、農村出身者が多い。

そういう体制側から見ればプノンペンみたいな都市部の連中は「革命思想が浸透してないクズ人間」だから
町から強制的に追い出し、強制労働させながら教育するのが当然という発想になる。その中に少しでも
反革命分子が混じれば悪い思想はすぐ広がる。そうなる前にアヤシそうなヤツは片っ端から施設に集め、
自白させ、殺す。彼らにとってはスジの通った革命思想だったんだと思われる。


⑨看守たちの回想(反省?)
そういう“体制側”にいて、多くの自国民を拷問し、殺した看守たち。
1979年1月のポル・ポト敗走後、一部ではそういう連中に対する復讐リンチもあったらしい。
でも全体としてはそういう例って少数で、多くの看守たちはその後もカンボジアで罪に問われることなく
多少の“再教育”を経ていまも普通に生活している。

戦争犯罪って通常は「A国(通常は戦勝国)の人間を殺したB国(通常は敗戦国)の人間」が
対象になる。裁判では「殺された国」のガワの裁判官なり検察官なりが「殺した国」の
軍人や政治家を裁く形になる。日本もドイツもそうだった。

しかしカンボジアの場合そうじゃない。自国民が自国民を殺してるから、仮に戦争犯罪で
裁くとしても、告発する相手は当然自国民だ。
ただでさえ人口の1/2だか1/3だかが殺されたっていうのに、さらに大量のカンボジア人を、
カンボジア人自身が戦犯として追求し、投獄し、場合によっては処刑できるだろうか?

ポル・ポト体制がカンボジアに残した大〜きな傷の一つがコレだと思うんだよイ課長は。
家族を殺された恨みを持つ人間と、殺した当事者である元看守とがその後も混じり合ったまま
一つの国の国民を形成し続けてる。イ課長には想像が難しい世界だ。

トゥール・スレンにはそういう「今もカンボジアで生活してる旧ポル・ポト体制側の人」のことも
展示されている。要するに当時のココの看守たちはいまどうしてて、何を思うか?というわけだ。

⑧で「一番左の列の下から2番目の女性をご記憶あれ」と書いた。
たまたまイ課長の写真に入ってたその女性が「看守のその後」の展示の対象になっていたんだよ。
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写真の感じだと今はカンボジアのどこかの農村でつましく暮らしているっぽい。
当時の恨みを持った連中に今でも狙われるとか、復讐が怖くてしょうがないってこと、ないんだろうか?

「看守のその後」に関する展示は他にもある。
この男性の場合「当時クメール・ルージュのために働いたことは後悔してない。罪を犯した者には
裁判がなされるべきだ」みたいな本人の回顧談が載ってる。彼が看守だった当時の写真を見ると、
まるっきり中学生くらいだ。
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しかし現在の彼が革命の名の元に死んだ何百万もの自国民に(その中の何人かは自分が殺してるかもしれない)
何を思うのか、この短い文章からは読み取れない。そして、これもまたイ課長には想像がつかない。


うーん・・書いてたらまた長くなってしまった。しかし最もキツい展示はまだあるのだ。
さらにトゥール・スレンの記事は続くのである。

 
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by tohoiwanya | 2015-08-31 00:08 | 2014.09 東南アジア旅行 | Comments(0)
2015年 08月 28日

トゥール・スレン虐殺博物館 その2

「気分が暗くなる度合い」の少ないものから書いていってるトゥール・スレン虐殺博物館。
展示内容のダーク度はだんだん高くなる。覚悟して読み続けてほしい。

④ハリと瓶
建物の上から“校庭”を見渡すとこんなものがあった。
あー、こういうのはアウシュビッツでも見たよ。吊るし首用のハリだろう?
地面にある水瓶は何だかわかんないけど、これはただ水をためておくものだろうと思った。
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だが実態はちょっと違ったようだ。これは「後ろ手吊るし」と「水責め」の拷問設備だったんだな。
それは下の絵を見るとわかる。
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後ろ手吊るしって昔からよく使われる拷問で、自分の体重で肩がはずれることが多いとされる。
そもそもこの高いハリも、高校の体操の吊り輪練習用にあったものらしいのだ。学校にあった設備が
こういう用途に“有効利用”されてたわけ。


⑤お墓
旧校庭、いまは博物館の中庭にはこんな感じの白いお墓がいくつも並んでいる。
ここで殺された人のお墓・・・にしては数が少なすぎないか?
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1979年にベトナム軍(+反ポル・ポトのカンボジア勢力)がプノンペンに進軍した時、
ポル・ポト派はロクな抵抗もせず、西のタイ国境山岳地帯に敗走した。ベトナム軍は市街戦を
することなくプノンペンを、いわばまぁ「無血解放」できたことになる。

で、このトゥール・スレンに来てみたベトナム軍はキモを潰した(んじゃないかと思う)。
ポル・ポト派はこの施設も「そのまま」の状態で逃げちゃったわけで、そこには無惨に放置された
死体も残っていた。

そういう放置死体を埋めたのがこの白い墓ということらしい。遺体は14人くらいあったとか。
下の写真は79年1月に解放された時に生き残っていた子供、と書かれているね。
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⑥拷問グッズ
反革命分子を尋問し、強制自白させ、殺すことが目的の施設だったわけだから、尋問に際しての拷問は
当然のように行われた。この辺はワルシャワの旧ゲシュタポ本部と同じで、こういう施設はいつの時代の
どこの国でも同じようなものになるんだろう。
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当時の拷問の様子が絵で(生き残りの収容者が描いたと思われる)展示されてる。絵の破損が激しくて
イマイチよくわからないが、拷問にはいろんな方法があったようだ。
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・・と思ってたら、上の写真の一番下の絵で使われてた拷問グッズの実物もある。
一種の水責めみたいなもので、人ひとり沈めるわけだから実物はけっこうデカい。
うううーー・・だんだん気分が重苦しくなってきたぞ。
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⑦独房
トゥール・スレンには収容者をブチ込んだ独房もそのまま残っている。前に見た大部屋が一般収容者用とすれば
こっちは何らかの理由でもっと苦しめる必要がある「要処罰収容者用」だったんだと思われる。

これがさー・・レンガ造りなんだけど、とにかくやたら雑に作ってあるんだよね。
見た目なんて悪くていいからとにかく急ごしらえで作ったってのが明らかだ。そういう独房が
学校らしいキレイなタイル貼りの床の上にあるわけで、その「マッチしてなさ」が気持ち悪い。
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独房は恐ろしく狭い。このクサリは足かせだったと思われる。ベッドもイスもテーブルもなくて
寝たければ床にゴロ寝。ちなみに、トイレもこの中でシたそうで、ソレ用の小さな箱一つを
渡されただけでブチ込まれたらしい。
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木製の独房もある。これはイ課長の想像だけど、最初はレンガで作ってたんだけど、コストと時間が
かかるから木にしたんじゃないかなぁ?東南アジアなら木の方が材料費も安いはずだ。
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自国民を殺すにあたってクメール・ルージュがものすごくケチだったっていうのは有名な話で、
銃殺なんてしない(タマ代がもったいない)。棍棒とか刃物とか、赤ん坊は木に叩き付けるとか、
コストのかからない殺し方をしたと言われている。相手は空腹と拷問で半死半生の状態だから
棍棒でも“効率よく”殺せたらしい。木造の独房っていうのも低コスト化のためじゃないのかなぁ?


かなり気分が暗くなってきた?しかしこんなもんじゃないのだ、トゥール・スレンは。
次回はさらに暗くなるけど、イ課長は書くのである。

 
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by tohoiwanya | 2015-08-28 00:06 | 2014.09 東南アジア旅行 | Comments(2)
2015年 08月 26日

トゥール・スレン虐殺博物館 その1

それでは始めよう。トゥール・スレン虐殺博物館。

以前にこのブログでダークツーリズムについて書いたとき、アウシュビッツ以外の代表的な
ダークツーリズムの例としてカンボジアのトゥール・スレンや南京大虐殺紀念館について触れた。
あれを書いたのが2013年の10月。それからわずか1年後の2014年9月にまさか自分が本当に
トゥール・スレンに行くことになるたぁ、お釈迦様もイ課長も気が付かなかったねー。

そもそも最初はトゥール・スレンがカンボジアのドコにあるのかも知らなかったんだから。
何となくアウシュビッツと同じように人里離れたところにあるんだろうって先入観があったけど
実はプノンペン市内の便利な場所にあって、元々は高校の校舎だったんだと。

入口はこんな感じ。入場料は2ドルくらいだったと思う。米ドルね。
地元の中学生たちがゾロゾロ見学なんていう感じは全然なくて、来場者はほとんど全員が
海外から来た旅行者のようだ。ただし日本人らしき人は見かけなかったなぁ。
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建物の感じは日本人から見ても確かに学校の校舎っぽい構造になってると思う。
建物の両端に階段があり、各階の教室はベランダ兼用の廊下でつながってる。イ課長がむかし通った
中学校も同じような構造だったよ。内廊下がないんだよね。
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しかしここがポル・ポト時代なにに使われてたか知ってる見学者としては、建物が学校っぽいがゆえに
逆に不気味な気分になる。ごく普通の学校が自国民拷問・虐殺の一大拠点として使われたという事実。
階段の踊り場の床にはこんなシミがあるけど、これ、もしかすると血の跡か?トゥール・スレンには
床に血痕が残ってるなんて場所がけっこうあるらしいんだけど、ここかなぁ?ううう・・・
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トゥール・スレンの展示内容をご紹介するにあたっては「見た順」ではなく「ダーク度」を指標に書こう。
「気分がダークになった度合いの」軽→重という流れで書いていきたい。その方が読み手も少しずつ
“耐性”ができていくような気がするからね。まずは穏やかなところから。


①関連図書資料展示
教室の一つは関連図書を集めて自由にお読みくださいって感じの部屋になってる。
欧米人旅行者が何人もジックリ読んでた。欧米人が多いってことは英文図書が多いはずで、
イ課長は特に何か読んでみるってことはしなかったけど、こんな風に机とイスが並んでるのを見ると
改めて「ここはもと学校だったんだなぁ」って感じる。
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②大部屋
ここでは共産主義革命の内部攪乱を図る反革命分子を片っ端からしょっぴき、尋問し、拷問し、殺した。
そういう意味じゃワルシャワ旧ゲシュタポ本部に似た性格を持ってるんだけど、収容していた
人数も相当多かったようで、収容所的な側面もある。これが教室を使った大部屋収容施設。
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番号のあるところが「一人分の就寝スペース」ってことらしいから、ほとんど体をくっつけるようにして
寝てたわけだ。冷房はないから夏は暑かったはずで、隣りのヤツの体は汗でベトベト・・なんてことを
気にしてられないくらい、ここの衛生状態はそもそも最悪だったらしいけどね。
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当時の様子を描いた絵(反射で見づらいが)。床にすごい密度で収容者が寝かされてる。
耐え難い居住環境だ。もっとも、逮捕⇒尋問&拷問⇒粛清(殺害)というここのシステムを考えれば
一人の収容者が1年も2年もここで暮らすということはあまりなくて、収容期間は数か月程度ってのが
多かったなんて話も読んだ。
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③収容者心得
歩いていくとこんな英語の看板があった。最初は「飲食禁止」みたいに見学者向けの注意事項でも
書いてあるのかと思ったけど、乏しい英語力で読んでみると、これは当時の収容者たちに対して
体制側(要するにポル・ポト派)が要求した一種の“収容者心得”だってことがわかってくる。
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1.質問にはちゃんと答えなければならない。質問をそらしてはならない。
2.口実を設けて事実を隠してはならない。お前が抵抗することは厳しく禁じられている。
3.お前は革命を阻害する愚か者であってはならない。
4.お前は質問に対して時間を無駄にすることなくただちに答えなければならない。

(中略。英語が得意な方、訳してください)
10.いかなる規則違反があった場合でも10回の鞭打ちか5回の電気ショックをうけることになる。

十分予想されることだけど、実際ここに収容された人のほとんど、つうかほぼ100%近くは
反革命分子でもスパイでも何でもないフツーの人。そういう人たちが拷問の苦痛に耐えかねて
「自分はスパイですぅ」という自白を強要され、仲間(親戚や友人)は誰かを吐かさせられる。
そこで名前の出た仲間(親戚や友人)もまたここにしょっぴかれ、拷問され、自白を強要され、
仲間の名前を言わされ・・というイモづる式のサイクルが延々と繰り返されたわけだ。

「私、スパイですぅ」なんて自白すれば、自分が処刑されるってことは十分わかっている。
しかし仮にテコでも自白しなければ、延々と拷問また拷問が続き、拷問の果ての拷問死が待っている。
どっちみち自分は殺されるという状況の中で「少しでも長く生きて長く拷問され続ける」か
「早くウソ自白して早く死ぬ」か・・収容者たちはそういう選択を迫られたことになる。


トゥール・スレン虐殺博物館。この程度の“ダークさ加減”はまだ序の口なんだけど、
続きは次回だ。まだまだあるぞ。

 
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by tohoiwanya | 2015-08-26 00:08 | 2014.09 東南アジア旅行 | Comments(0)
2015年 08月 24日

ダーク・ツーリズムに向けた予習 その2

モノの本によると、ポル・ポトを中心としたクメール・ルージュのボスたちっていうのは
別に血に飢えたサディスト集団ってわけじゃなく、フランス留学経験のあるエリートばかりで
一応カンボジア型共産主義建設(革命)の理想に燃えてたんだと思われる。
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しかしその理想は普通に考えれば完全なビョーキ。彼らの異常なまでの「既存体制破壊」の執念には
驚きを通り越してゾッとする。都市住民は全員強制疎開&強制労働、都市部の学校も病院も全部閉鎖。
私財は没収、通貨は廃止、宗教なんかも当然廃止だ。都市住民の大人たちを農村で強制労働させる一方で
子供たちを集めて革命洗脳教育をほどこし、異常なコドモ革命戦士を大量育成して手先として働かせた。
カンボジアじゃ夫婦や親子なんて家族関係は事実上消滅しちまった。ついでに戸籍も廃止ときた。

そしてご存知のように、反革命的と言いがかりをつけては自国民をとにかく片っ端から殺しまくった。
医者とか教師とかエンジニアとかのインテリは反革命分子になりそうだから殺す。メガネかけてるヤツは
インテリっぽいから殺す。フランス留学中のエリート連中はインテリの最たるものだから「カンボジアに戻って
祖国再建に力を貸してほしい」と声をかけ、呼び寄せ、殺す。

ここに彼らのビョーキぶりが見てとれるとイ課長は思う。フランス留学したカンボジアのエリートって、まさに
自分たちじゃん!ポル・ポト派の連中は「かつての自分たち」を反革命分子として危険視し、殺したことになる。
こうなるともう完全な被害妄想。もちろん殺したのはエリートだけじゃない。地方で強制労働させてるヤツらが
ちょっとでもサボッたり不平を言えばソク殺す。
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人口約600万人のうち200万人くらいが殺されたなんて話もあるけど、このくらいの規模になると
アウシュビッツと同じで正確な人数なんてわかんないし、聞いてもその規模をイメージできない。

この大虐殺。思想背景的には中国の文化大革命とか毛沢東思想の悪しき影響が強かったようで、それはそうなんだと思う。
ただ、ポル・ポト派幹部の当時の発言(もちろん伝聞だが)を読むと、実際問題として単純に「養うべき国民の数を
減らしたかった」っていう側面もあるんじゃないかって気がするんだよなぁ。

イ課長がバスで越えたあのタイ国境は命からがら逃げてきたカンボジア難民が押し寄せた場所なんだよ。
あのバスで途中弁当を積んだタイ側の国境の町アランヤプラテートは当時世界中からジャーナリストや
ボランティアや人権活動家が押し寄せ、パンク寸前だったらしい。

しかしイ課長が注目するのはむしろここから先の展開。
これだけメチャクチャなポル・ポト体制、いったいどうやって倒れたのか?カンボジア人民の反乱?

実はベトナムのカンボジア侵攻のおかげなんだよね。ポル・ポト派はだんだん「ベトナムは敵だ」って被害妄想も
強めたようで、ポル・ポト軍がベトナム領内の村を襲撃・虐殺するなんていうことも増えてきたらしい。
カンボジアからベトナムに逃げて来た難民から隣国で何が起きてるかの情報も入ってくるわけだから
「ポル・ポトってどうもマジキチみたいだし、早めにツブしといた方が・・」という思いが
ベトナム側にあったことは十分想像できる。

で、ベトナム軍は「反ポル・ポト」のカンボジア武装勢力と一緒に1978年暮れにカンボジアに侵攻し、
翌年1月、アッという間にプノンペンを制圧した。当時のベトナム軍は戦争慣れしてたからねぇ。
プノンペンには親ベトナム派のヘン・サムリン政権が設立され、ポル・ポトはタイ国境の山岳地帯に敗走。
山奥にこもってヘン・サムリン政府に対してゲリラ戦を続けることになる(=カンボジア内戦)。
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(上のモノクロ写真3点の出所は ://diogenesii.wordpress.com/ ただしココ自体がたぶん
 2次使用じゃないかとは思うが) 

こうして見れば、今度はどちらかといえば「ポル・ポトをやっつけたベトナム側の方に正義はある」と思える。
ベトナム軍侵攻がなければポル・ポト支配がもっと続いてたのは確実。ベトナムは残虐なポル・ポト支配から
カンボジアをとりあえず解放してあげたことになる。

ところが世界はそうは見なさなかった。
当時ソ連寄りだったベトナムがカンボジアに侵攻したのを中国や米国やタイは良く思わなかったんだな。
「弱いカンボジアを侵略した悪いヤツ・ベトナム」として孤立させようとした。ヘン・サムリン政権なんて
ベトナムの傀儡だから認めない、で、あろうことかポル・ポト政権こそカンボジアの正当な政府なんだと主張した。
ソ連の息がかかったベトナムの、そのまた息がかかったカンボジア政府を世界は認めなかったのだ。

結果的に国連の議席は何とポル・ポト政権に与えられ、日本政府もそれに同調した。つまりだよ?
何百万の自国民を殺したキチガイ政権を「正当なその国の政権」として日本を含む世界の多くは承認し続けたのだ。
そんなこともイ課長は今回初めて知ったよ。「歴史を直視しろ」とか言ってる世界中の為政者の皆様方には
「自国民を何百万も殺したポル・ポト政権こそ正当な政府」と認めたご自分たちの歴史もぜひ直視してほしいもんだ。
(当時は虐殺情報に対して大半の国が半信半疑だったのだ、みたいな言い訳が用意されてるんだろうけどさ)

この時期の報道ではカンボジアに軍を進めたベトナムが悪者にされてたのは確かで、イ課長もベトナムが
カンボジアを実質的支配下に置いているというニュースを見て「迫害されたユダヤ人が今度はパレスチナ人を
迫害してるみたい・・」みたいな印象を持ったもんだった。

一方ベトナムは自国のカンボジア侵攻を正当化したいって思いがあったから、ポル・ポト時代にカンボジアで
何があったかを世界に訴えた。それがあまりにも残虐すぎて信じ難いから、最初は誰もが「まさかぁ・・」と
思った(んだと思う)けど、今となってはポル・ポト派による自国民大虐殺の事実を疑う者はいない。

タイ国境地帯に隠れたポル・ポト派とヘン・サムリン政権(+ベトナム)によるカンボジア内戦は
その後も1991年頃まで続き、ポル・ポト自身は1998年に心臓発作で死亡した(毒殺説もあり)。
ポル・ポト派の残党も今や消滅したんだと思う。しかしポル・ポト支配の4年間がこの国に与えた
ダメージはあまりにも深い。カンボジアの人口ピラミッドがこんなに歪んでるってこと自体、
この国でかつてあったことがいかに異常なことだったかを物語る。
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プノンペンではトゥール・スレンにぜひ行こうと思っていたイ課長は以上のようなことを
日本で予習してからカンボジアに行き、トゥール・スレンを見学したわけだ。

イ課長にとっては2012年ポーランド以来のダーク・ツーリズム、トゥール・スレン虐殺博物館見学。
次回から始めさせていただきます。ええ、もちろん続きものになるはずですよ、ええ。

 
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by tohoiwanya | 2015-08-24 00:07 | 2014.09 東南アジア旅行 | Comments(0)
2015年 08月 21日

ダーク・ツーリズムに向けた予習

さて、それではプノンペンに話を戻そう。

プノンペンのトゥール・スレンのことを書き始めようと思っている。
トゥール・スレンって、ポル・ポト支配の時代に反革命分子を収容し、拷問し、殺した施設で、
現在は「トゥール・スレン虐殺博物館」(Tuol Sleng Genocide Museum)という名称になってる。
当時は「S21」と呼ばれてた。これは地名や施設名っつうより“機関”の名称なんだろう。
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プノンペンに行くまでイ課長がポル・ポトについて知ってたことなんて「カンボジアの独裁者で、
大量虐殺の首謀者」ってことくらい。どういう経緯で彼が権力を握り、何を理由に自国民を大虐殺したかも
実はロクに知らなかった。

こんなことではいかん。プノンペンに行ったら久しぶりのダーク・ツーリズムでトゥール・スレンに
行くつもりだってのに、ポル・ポト大虐殺の経緯・背景なんかを全然知らねぇじゃねぇか、自分は。

そこで、図書館で本を借りたりしてドロナワで予習した。予習してみるとイ課長が中学生くらいの頃に
「ニュースで名前だけは聞いた記憶があるなぁ」っていう人名がけっこう出て来るんだよね。

カンボジアにおける大虐殺の背景にはベトナム戦争があり、さらに米中ソの思惑も絡むから
非常に複雑だ。しかしトゥール・スレンの話を書く前にちょっと整理しておきたい。

ベトナム戦争から始めよう。
1970年頃。ベトナム戦争のドロ沼にはまっていた米軍は北爆で北ベトナムを叩きつつ、
南ベトナム領内にいる民族解放戦線、俗にいう「ベトコン」も殲滅する必要があった。
北ベトナム政府は隣国のラオスやカンボジアを迂回して南とつながる補給線(ホーチミン・ルート)を
持ってて、これがある限りベトコンはいつまでも持ちこたえる。だから米軍としてはラオスや
カンボジア領内に侵攻してホーチミン・ルートをブッ潰したかったわけだ。

当時カンボジアの元首はシアヌーク。この人の名前は聞いたことがある人が多いだろう。
シアヌークは当初中立政策をとって自国をベトナム戦争に巻き込ませまいとし、その後は
反米色を強めて米国と断交までした。しかし彼の国内政権基盤は強固とはいえず、反シアヌークを唱える
右派だ左派だってのが勢いづいてた。カンボジアもけっこう混乱してたわけだ。

そんな折、シアヌークが外国訪問中にとうとうクーデターが起きた。
首謀者はロン・ノル将軍っていう人で、完全な親米派。シアヌークは自国に戻ることもできなくなり
中国に仮住まいすることになる。米国はおおっぴらにカンボジア内に侵攻し、ホーチミン・ルートを
ドカスカ攻撃してはみたけど、悪化した戦局を好転させるほどのインパクトはなかったらしい。
「ろんのる将軍」って当時のニュースでよく聞いたよ(下がロンノル、出典Wikipedia)。
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米国べったりのロン・ノル政権に対し(実際、彼は後に米国に逃げてそこで死ぬ)「反ノン・ノル」を掲げて
戦う連中も出る。その中心勢力がクメール・ルージュ(赤いクメール)、つまりポル・ポトらが率いる
共産主義勢力だったわけだ。ロン・ノルのクーデターで国を追われたシアヌークはクメール・ルージュと
こんどは「反ロン・ノル」で手を結ぶ。

重要なのは、この時点ではどちらかというと「正義はクメール・ルージュにあるかな」と思えることだ。
ロン・ノル政権はほぼ米国の傀儡。それを倒すために戦うクメール・ルージュは米国傀儡政権から
カンボジアを取り戻す正義の勢力・・と思いたくなる。しかも国民に人気の高いシアヌーク国王と
共闘してるわけだからね。だが後から考えればこの時シアヌークは悪魔と握手していたことになる。

クメール・ルージュって共産主義なわけじゃん?共産主義者が王様と共闘するってこと自体、
異常な組み合わせだ。シアヌークは結局のところクメール・ルージュに利用されたにすぎず、後に
プノンペンの王宮に幽閉されることになる(下がシアヌーク、出典は同じくWikipedia)。
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さて。いよいよベトナム戦争で敗色濃厚となった米国はスタコラ撤退。そうなると南ベトナム政府軍は
たちまちヘナヘナになり、1975年4月30日にサイゴンは北ベトナム軍によって陥落することになる。
世界の注目は「サイゴン陥落・ベトナム戦争終結」に集まってたし、その時のことはイ課長も
ニュースや新聞で見て覚えてる。しかしだ・・・

実はその2週間ほど前、1975年の4月17日にプノンペンはクメール・ルージュによって陥落してたのだ。
クメール・ルージュの兵がプノンペンの街に入ってきた時、市民たちは一応歓迎したらしい。
「米国傀儡政権からカンボジアを解放」っていうイメージを市民たちも多少は持ってたんだと思う。
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問題はここからだ。プノンペンを制圧したクメール・ルージュはその日のうちにプノンペン市民を町から
追い出し始めた。「米軍の空襲がある」とかウソついて地方に強制疎開させたのだ。しかも徒歩で。
4〜5月って東南アジアが一番暑い季節だ。この時期、長距離をひたすら歩いて強制疎開させられ、途中で
身体の弱い老人や子供や病人などがバタバタと死に始める。
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住民が追い出されたプノンペンはカラッポだ。本当にカラッポになるまで完全に住民を追い出した。
誰もいなくなってゴーストタウン化したプノンペンの映像が世界に報道されたのはずっと後だったけど
テレビであれを見たときはちょっと信じ難かったよなぁ。
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でも、プノンペンでそんな陰惨な事態が起きてることを世界が広く知ったのはずっと後の話。
さっきも言ったように1975年4月下旬の世界中の注目は「いよいよサイゴン陥落間近」なわけで、
カンボジアがどうなってるかという情報はほとんどなかった。サイゴンの2週間前に実はプノンペンが
陥落してたってことも今回の予習によってイ課長は初めて知ったのだ。
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多くのカンボジア人はこのあと4年近くにわたって真の地獄を経験することになる。
というか、それだけの地獄期間を経験して生き延びた人はある意味幸運だったわけで、多くの人は
途中で殺されたから地獄経験期間はもっと短かったことになるが・・

しかし長くなったから次回に続く。予習だけで続き物っていうんだから先が思いやられるけど、
これについては書いておきたいのだ。
(ちなみに、出典説明のない写真はイ課長がトゥール・スレンで撮ってきた展示写真です)

 
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by tohoiwanya | 2015-08-21 00:12 | 2014.09 東南アジア旅行 | Comments(4)
2014年 07月 07日

バンコク・ダークサイド

バンコクって近代的大都会だけど、「東南アジアっぽい怪しげなブブン」もふんだんに持ち合わせてて、
いうなれば清濁混在した街ともいえる。まぁ大都会なんて大体どこもそうだが。

イ課長が1996年に初めてバンコクに出張した時は、今よりだいぶ若くて純真だったから(笑)
そういう「怪しげなブブン」に対する免疫度も低かった。だもんで清濁合わさったバンコクの、
“濁”の方に関しちゃいささかゲンナリっていうのが正直なところだった。

しかし久しぶりに行ってみるとバンコクのダークサイドもけっこう様変わりしてたね。
本日は、そんなバンコクのダークサイド特集。

ところでダークサイドって何なのか?まぁなんというか、要するに「観光資源として外国人に
PRされることのない部分」とでも言えばいいか・・。読んでるうちにわかるよ(←テキトー)。
とりあえず最初は比較的穏当なところからいこう。


【トゥクトゥク】
「初バンコク」のときは、道を歩いてるとひっきりなしに「トゥクトゥク?」「ヘイ、トゥクトゥクぅ?」って
ドライバーから声がかかった。その頻度たるやホントにスゴくて、しょっちゅう声をかけられる。

最初のうちは「ノウ、ノーサンキュ」なんてマジメに断ってたけど、だんだん面倒になって
「ノウ」と一言で拒絶するようになり、最後にはそれすら面倒になって完全無視。あれだけ多いと
そりゃウンザリもするって。

それがどうよ。今やバンコクじゃ四輪タクシーばっかでトゥクトゥクもいるにはいたけど、目撃頻度は
昔よりだいぶ減った。当然ドライバーの客引きもない。ウザい客引きがなくなったのは結構だけど
バンコク名物トゥクトゥクがこのまま絶滅危惧種になっちゃうとしたら、ちょっと寂しいなぁ。
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【ポン引き】
これも1996年に比べて劇的に減ってた、というか事実上消滅してた。これには本当に驚いたよ。
あの当時は夜の繁華街を歩くと「一人で歩く距離」より「ポン引きにつきまとわれながら歩く距離」の方が
長いのではないかと言いたくなるくらいの多さで、あんなポン引き密度は後にも先にも経験したことがない。
それが全くいなくなってたっていうのは、頬をツネりたくなるような、信じ難い思いだったよ。

現在でもごく狭いエリア(パッポン通りの中だけとか)で客引きも多少いるにはいた。でも
黙って店の紹介カード?を見せる程度の、蚊トンボほどのパワーも感じられないヤワな客引きで、
昔の「シャチョサ~ン波状攻撃」を体験してる身にすりゃ、ユルすぎて気が抜けちゃうくらいだ。

「へ~イ、シャチョサ~ン」というあの声が絶滅危惧種になるのが寂しいかって?いやもう全然。
いなくなってセイセイしたぜ。96年はそりゃもう、つくづく、ホトホト、ウンザリしたんだから。

当時あれだけいたのが今や全然いないっていうことは、もしかすると路上での客引き行為に関して
何か規制が出来たのかもしれない。でも、だからってバンコクが健全でマジメな街になったかというと、
そういうわけでもないようで・・・
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【夜のお姉さま】
こちらは去年6月に行ったときけっこう見た。昔は「本人が直接」って見かけなかったんだけどなぁ?
ポン引きという仲介サービスがなくなって、本人による「直売方式」が増えたということなのだろうか。

夜のスクンビット通りを歩いてると、そういう感じのお姉さまたちが立ってて、時々その中の一人が
「オニーサン・・」って日本語で話しかけてくる。残念ながら彼女たちはイ課長を日本人と見抜くようで、
ヒンズー語やアラビア語で話しかけてくれるご婦人は一人もいなかった(笑)。

一度、あるお姉さまが「ちょっとお話ししない?話すだけ・・」とやけに流暢な日本語で声かけてきた時は
ちょっと驚いた。イントネーションがほんとに自然で、すごく上手な日本語だ。ひょっとすると子供の頃に
日本から送られてきた絵本を読み、それからずっと日本語を勉強したとか?・・なーんて妄想が広がって、
思わず「出身どこ?年齢は?」って聞いてみたくなったけど、もちろんやめておいた。

実は6月に泊まったホテルってのがさぁ、こともあろうにバンコクの「援交カフェ」としてその方面じゃ
有名な店の近くだったみたいなんだよ。街角のお姉さまがたをよく見かけたのはそういう立地的要因が
影響してるっぽい。要するに援交カフェ近くをウロつくオッサンなら女目当てが多いだろうから
そういうオッサン目当てのお姉さま方もまた集まってきたってことじゃないかと思われる。

その証拠に、12月のバンコク旅行で同じスクンビット沿いでも別のホテルに泊まったときは
見かけなかったからね。援交カフェ周辺に局地的に多かったんだと思う(下の写真は全然違う場所でごんす)。
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【物乞い】
これはバンコクにはけっこういる。昔もいたし、今もいる。
しかもその物乞いスタイルが明るくないんだよ。暗いの。見ててツラくなる。なぜかというと
身体的障害を前面に押し出した人が多いんだよね。コドモの頃に見た傷痍軍人を連想しちゃう。

重い障害で、足では歩けない(と思われる)少年が、繁華街の歩道をグネグネ這いながら移動してる。
もしかすると知的障害もあるのかもしれない。身につけてるのは短パン1枚だけ、上半身はハダカ、足はハダシ。
そんな少年が片手にコップ持って地面を這ってるの見たら誰だって驚く。

バンコク滞在の最後の日の晩に歩道橋をわたっていたら、そこに小さな女の子の物乞いがいた。
もうどうせバーツの小銭はいらないから、残った小銭はこの子にあげちゃおう。でもその前に
一枚写真を撮ろうかな、と欲を出したのがマズかった。
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デジカメでよくあるけど、暗い場所だと測距のために赤い光をピッと投げかけることがあるでしょ?
この時もその光が出ちゃって、女の子がこっちに気づいて反射的に逃げようとした。
あわてて後を追い、お詫びの意味もこめて残った小銭をぜんぶ缶に入れてあげた。おどかしてごめんよ。
障害者の物乞いが多いだけに、コドモとはいえ普通の物乞いを見ると少しホッとする。

年末にバンコク行ったときも帰国前に残った小銭は最後に路上の物乞いオバサンにあげた。
彼女は明らかに視覚障害者なんだけど、手にはコップと一緒にハンディカラオケみたいなものを持って、
ずーーっと何か歌を唄ってる。そういう意味では物乞いと街頭パフォーマーの中間的存在というべきか。
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というわけで、トゥクトゥクから始まって、ポン引き、売春、乞食と、だんだんヤバくなったね。
PRされることのない部分=ダークサイドという言葉に込めた意図をおわかりいただけたでしょうか。

さっきも書いたように、初めてバンコクに来たときはこういうダークサイドにかなりヘキエキした。
でも今回はわりと寛容というか、「こういうのも含めてバンコクなんだよなぁ」という気持になったね。
イ課長がトシとって、ダークサイドに対する免疫が多少高まったというのも理由の一つだろうけど
他にも理由はあると思う。

今回は初訪問じゃなく、17年前と比較しながら見られたっていうのは気持の余裕という点で
かなり大きかったのは確かだ。さらに10年前の絵本プロジェクトの影響も大きいし、個人的には
前年の10月にインドに行ったことの影響もかなりあるって気がするんだよなぁ。

しかし最大の理由は「うるさいポン引きがいなくて落ち着いて町を歩けたから」かも(笑)。


 

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by tohoiwanya | 2014-07-07 00:18 | 2013.06 ベトナム・タイ旅行 | Comments(6)
2013年 10月 07日

ダークツーリズムについて

これまでポーランド旅行に関する記事を書くにあたっちゃ「ダーク」という言葉が頻出してきた。
訪問予定施設の性格上、旅の前半が暗いものになることはわかってたけど、実際行ってみると
予想通り暗かった、というわけだ。

しかし、こういうダークな旅行って世界的に増えてるらしい。
イ課長のダークな旅、実は流行の先端をイッてたんだよ(笑)。

その名もダーク・ツーリズム。Wikipediaによる説明にはこう書いてある(記述は一部省略している)。

ダークツーリズム(Dark tourism)とは、災害被災跡地、戦争跡地など、人類の死や悲しみを対象にした
観光のこと。ブラックツーリズム(Black tourism) または 悲しみのツーリズム(Grief tourism)とも
呼ばれる。観光とは一般に娯楽性のあるレジャーの1つだが、ダークツーリズムでは学びの手段として捉える。


・・・ということらしい。で、そういうダーク観光地の例として挙がっているのが

○スコットランドのカロデンやルーマニアのブラン城(古戦場や城跡)、
○日本の広島平和記念公園やウクライナのチェルノブイリ、ニューヨークのグラウンドゼロ、
 ポーランドのアウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所(戦争やテロの跡地)
○ウェールズのビューマリス城(刑務所)、
○南京の南京大虐殺紀念館やカンボジアのトゥール・スレン虐殺博物館(虐殺の記録)などなど。
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ダーク・ツーリズムが増えてるって話は新聞なんかでも取り上げられてるみたいで、
近年の海外旅行トレンドの中でも新しい動きといえるんだろうな。しかし学びの手段とは・・・。

受け入れる側が「多くの人に見てもらいたい」と思っているのであれば、ダーク・ツーリズムっていうのは
結構なことだと思うし(迷惑がられてたり、無神経な態度での観光は論外だが)、みんなもどんどん
行ってみるべきだと思う。しかし、ダーク・ツーリズムって「ここは行ったから、次はぜひあそこへ」的な、
タノシい海外旅行とは違うから、考慮すべきポイントもあると思うんだよ。

①その場所のダークな歴史的背景に興味・関心・知識がある
これは当然で、単に「ここはスゴいらしいから行きたい」だけなら行っても感じるものは少ないだろう。
ナチの強制収容所については本や映画でもそれなりに知ってるし、個人的に非常に関心があった。
しかし何の知識もないスコットランドの古戦場に行ったって、何も感じないよねぇ。

②ダークな旅の後に明るい気分に戻れそうなモノがあること
これ、けっこう重要だと思う。せっかくの海外旅行で「最初から最後までひたすらダークな旅」って重すぎる。
イ課長の場合、旅の後半はウォヴィッチの聖体祭見学、さらにヘルシンキの「北欧効果」で救われた。
あれがなかったらと思うと・・(笑)。

広島が外人旅行者に人気なのも原爆関連施設を見たあと、世界遺産の宮島観光が出来るってことが
影響してると思うなぁ。やっぱね、ダークな旅の後には気分転換も必要だよ。
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③特定の思想やイデオロギーに染まっていないこと
いくらダーク・ツーリズムが学びの手段っつうたって、学びを押し付けられるのは好まない。
こういうところ、アウシュビッツ・ビルケナウは立派だったと思うんだよ。声高に自分たちを被害者として
強調したり、ドイツ軍を単純に悪者扱いするような、プロパガンダ的展示はない。
もっと“教育的”な展示にしようと思えばいくらでもできるんだろうけど、そういうところがない。

広島の原爆資料館を見た欧米人なんかも「客観的な展示」という印象を持つ人が多いらしい。
南京大虐殺紀念館とかトゥール・スレンなんかはどうなんだろうか?もし反日思想や反ポル・ポト思想が
強調された施設だったりすると、仮に見に行ったとしてもちょっとガッカリするんじゃないかと思う。

そこを見て、何を思うかは旅行者それぞれ。仮に将来、福島第一原発がダーク・ツーリズムで見学者を
集めるような施設になった時、そこを見て「放射能あぶない、原発やめよう」と感じる人がいる一方で、
「災害に強い原発を推進しよう」と感じる人がいたって全然構わないと思うんだよ。「ここに来た以上は
コレを学んで帰っていただきましょう」的な場所はゴメンこうむりたい。
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実際、ビルケナウやプワショフに行った時のイ課長なんてさ、その場の荒涼たる静けさと死の匂い、
そして、その場をいま自分が生きて歩いているという事実の重さを受け止めるのに精一杯で、
「二度と戦争を繰り返してはいけないと学びました」なんてとても言えないよ、率直に言って。
でも「何を学ぶか」じゃなく「何を思うか、感じるか」こそが重要なんじゃないか、とも思うんだよね。

ポーランドでのダークな旅。イ課長がそこで何を学んだかと聞かれたら、大した学習成果はない。
せいぜいポーランド語の「ごめんなさい」を覚えたくらいか(笑)。
しかし感じるものが多い旅だったことは確かなのである。

 

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by tohoiwanya | 2013-10-07 00:14 | 2012.06 東欧・北欧旅行 | Comments(4)
2013年 09月 25日

旅のダークサイド

旅というのは常に楽しいウキウキ気分だけで満たされているわけではない。
時にはダークでドンヨリとした気分が続くこともある。

アウシュビッツとか、プワショフ収容所跡地とか、クラクフ滞在中に見たものはダークな所ばっかり。
たぶん、普通の明るい観光以上に疲れたんだろうねぇ。冷たい雨という天候も重なって、クラクフでは
明るく、美しく、楽しいコトをしたっていう記憶がないし、実際そういう事実もない(笑)。

たとえばメシ。
クラクフ到着日は晩飯を食わなかった。ホテルでビール飲んでたら、疲れてたせいか眠くなって、
結局そのまま朝まで寝てしまった。メシ抜き。あーあ。

翌日、つまりアウシュビッツに行った日もひどかった。
アウシュビッツ見学ツアーには昼飯がつかないって聞いてたから、イ課長は念のために
事前にイチゴ風味の水と軽いスナックを買いこみ、カバンに入れておいた。
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でも収容所にいる間はとてもモノを食おうなんて気になれず、そのまま持ち帰ってきた。
で、夕方ホテルでそれをポリポリ食ってビール飲んでたら、またそのまま寝ちまった(笑)。
この日のメシは、このプリッツみたいなスナック菓子だけ。ああひどい。
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そして翌日は雨の中、アーモン・ゲート旧宅を見たり、プワショフ収容所跡地を歩いたわけだ。
明日にはワルシャワに戻る。クラクフ最後の夜くらいはマシなもの食いたいが・・・

しかし、ホテルに戻ってイ課長がまずしたことは服を乾かし、靴を乾かすことだ。
なんとみじめったらしい。しかしこういう旅のダーサイドも記録のために写真に撮っておいた。
こんなもの誰も見たくないだろうが(笑)。
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夜になって(といっても6月だから7時くらいでも明るいが)、まだぜんぜん乾いてない靴をはいて、
ふたたび街に出た。クラクフ最後のメシ。しかしイ課長の士気は低い。
気分としては、温かい中華系のヌードルでも食って、ホテル戻ってビール飲んでバッタリ寝たかった。
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適当なメシ屋を探しながら、また旧市街を少し散歩した。雨は相変わらずやまない。

これはクラクフ中央広場にある繊維会館。中は土産物屋になってる。
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これは何の塔だ?と思って撮ったけど、どうも市庁舎らしい。
教会と市庁舎が目立って高い塔をもってるって、ヨーロッパの古い街でよくあるパターンだね。
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しかし、残念ながらイ課長はこのまま夜のクラクフを散歩しようかなという前向きな気分でもなかった。
心身は疲れてるし、靴もまだ濡れてるし、早いところ何か食って・・・

で、結局、クラクフ最後の夜のメシはこれ。テイクアウトの焼きそば。
その時の気分に一番近そうなものがコレだったからしょうがないんだけど、なんというか・・。
これと缶ビールを買って、ホテルの部屋で一人わびしく食って飲んで、そのまま寝た。
とうとうクラクフではマトモな晩飯を食わずに終わっちまった。
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まぁしょうがない。旅にはこういうダークな局面だってあるのだ。
しかし、美しい古都・クラクフには明るく美しい観光スポットだっていっぱいあるはずで、
そういうのを全然ご紹介できなかったのは申し訳ないと思ってるよ、クラクフに。


  
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by tohoiwanya | 2013-09-25 00:05 | 2012.06 東欧・北欧旅行 | Comments(8)