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2018年 12月 07日

真間の手児奈 伝説の地

真間山弘法寺のあるあたりは、「真間の手児奈」伝説で有名な場所でもある。

そういう“地元伝説”があることは高校の頃から知ってた。しかしテコナって女に
まつわる話っていう程度の認識しかなくて、詳しいストーリーは今回初めて知った。
一応簡単にご紹介すると・・

昔、真間の地に井戸があり、近所の女たちがそこに水を汲みにきていた。
その一人が手児奈という女で、身なりは貧しいけどバツグンに美しかったもんだから
近隣の男たちがこぞって嫁にしようと争った。しかし誰かと結婚しちゃうと、他の全員を
フらなければならない。それを苦にした手児奈は海に入水自殺。あーあ。

Wikipediaでは手児奈は一度他国に嫁ぎ、子も生まれたけど、国同士の争いに巻き込まれ、
子供と共に真間に戻ってひっそり暮らしていた(で、毎日真間の井戸に水を汲みに行って・・
・・と、上の話に続くんだろう、きっと)ことになってる。

万葉集には手児奈にまつわる歌がいくつもあるらしい。
前回書いた真間山弘法寺も、行基って坊さんが手児奈の霊を弔うために作ったのが
起源だそうだから、737年には手児奈さんはもうとっくに死んでたわけだ
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真間の手児奈にまつわる場所は、前回書いた真間山の階段のすぐ近くにある。
そんな近くにそんなモノがあったことも、当時は存じませんでした。
 
はい、これが手児奈が水を汲みに来たという「手児奈の井」です。
いくら何でもこれが奈良時代そのままの井戸とはトーテー思えない。桶なんて新品(笑)。
でもそこはホレ、やっぱ歴史はロマンですよ。固いこと言うのはやめましょう。
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はい、これは手児奈霊神堂。要するに手児奈を祀ったお寺らしい。上の井戸から見て
通りを挟んだハス向かいくらいの位置関係。さすがは手児奈伝説というべきか、イ課長が
滞在してたごく短い間だけでも何人もの人が参拝に来てた。
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ここは本堂の中に入れるらしい。靴を脱いで入ると、お坊さんが「どうぞお参りを」って
ロウソクに火をつけてくれたから、お線香をあげさせていただきました。
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「写真を撮ってもよろしいですか?」って聞いたら「ご本尊はちょっとアレですが、
天井なんかはどうぞ」って言ってくれた。だから上の写真もご本尊は写らないように
しているわけ。さて、天井っていうのは?
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うはぁーーー!!こりゃすごく古い。歴史的価値ありそうだ。
鳥とか動物とか、全部生き物の絵で格子天井が覆われてる。ものすごい数だよ。
これは一見の価値があるよ。手児奈霊神堂、なかなかすごいじゃん。
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真間山からすぐ近くの高校に3年間通い、「真間の手児奈」も名前だけは知ってたけど
高校生当時はそれにちなんだ場所を見てみようなんて殊勝な了見はゼロ。あの頃は
食い物と週刊誌のヌードグラビア以外のことには関心がなかったんだと思われる(笑)。

「かつて通学した地にあった伝説」にまつわる旧跡を、このトシになって初めて
散歩してみた、初冬の昼下がりというわけでございました。

 

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by tohoiwanya | 2018-12-07 00:07 | 日本での私生活 | Comments(0)
2018年 07月 09日

吉備津神社に行ってみる

岡山県の吉備津周辺といえば、桃太郎伝説の地。
昔、ここにいた温羅(うら=鬼)を吉備津彦命(きびつひこのみこと)が討伐したという
日本書紀の記述が後の桃太郎の鬼退治になった・・ということ・・らしい。

吉備津には、その吉備津彦命を祀る吉備津神社というところがある。
吉備津彦命≒桃太郎という公式に当てはめれば、「桃太郎神社」ということにもなる。
けっこう有名な神社で、本殿は国宝。

香川じゃ金毘羅様参り、本州に渡って岡山では吉備津神社参り。
還暦を前に、突然信心深くなったわけではないのだが。

吉備津神社は吉備津って駅で降り、そこからは歩いて行ける。田舎だねー。
食い物屋なんて全然ない。今日食ったのは朝の菓子パンと高松の駅うどんだけ。
早くも腹が減ってきたが、もうこの旅行中は空腹に耐えることに慣れた(笑)。
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はい神社。あの階段を登ると本殿があるに違いない。
金毘羅様を二日前に征服した我々にとって、この程度の階段、何ほどのことやあらん。
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はい着きましたー。サラリとお参りしましょう。
田舎にあるせいか、参拝者はそれほど多くない。でも外国人観光客はいたね。
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これが国宝の本殿。
破風が二つ並んでいる形状が非常に特徴的で、大変立派だ。
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奥の方に行くと、有名な木造の長い回廊がある。写真で見るとすごく美しい。
しかしこの日はなぜか弓矢を持ったすごい数の(たぶん)高校生がワンサカいる。
一体ナニゴト?
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こう人だらけじゃ、長大な回廊の写真撮影どころじゃない。
どこを向いてもハカマはいて弓を持った若者が練習してたり、談笑してたり、
何か食ってたり・・(笑)。青春やのう。
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歓声が聞こえる方に行ってみたら、ははー、やっぱ神社の中に弓道場があるんだ。
たぶん高校弓道の岡山県大会か何かなんだろう。桃太郎伝説スポット・吉備津神社で
弓道大会なんて気分いいじゃん。
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しかしまぁ弓道大会をいつまで見てても仕方ない。とりあえず回廊のいちばん端っこまで
行ってみたけど、特に何もなかったので戻ってきた・・・と、こう書くと、吉備津神社は
コレといったネタがない観光みたい。ところがギッチョン。

参拝や回廊見学より、吉備津神社で注目してたことがあったんだよ。
これに関しては大変カンゲキすべき体験もできた。あのことは詳しく書きたい。
ということで、例によって次回だ(笑)。

 

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by tohoiwanya | 2018-07-09 00:26 | 国内出張・旅行 | Comments(2)
2017年 10月 30日

おーい水島、一緒に日本に帰ろう

ミャンマー旅行以来、一度観たいと思ってたんだよね、「ビルマの竪琴」。
初公開版、カラーのリメイク版ともにまだ観たことがなかったのだ。

府中の図書館にDVDがあったから借りた。中井貴一が出たリメイク版じゃなく、1956年公開の
白黒版。ただし再編集バージョンだと思われる(初公開版には人食い土人とかが登場したらしい)。
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ある意味、「あの当時」だからこそ観る者の心の琴線に触れた映画といえるかもしれない。
昭和31年つうたら捕虜になってた日本兵が戻ってきてから10年たらず。「復員せず、そのまま
ビルマに残る日本兵」という設定はけっこう胸に迫るものがあったんだろうと思う。

この映画に特定のモデルはいない。日本に復員後、僧侶になった人がモデルとか言われてるけど、
そもそもミャンマーで出家者が音楽を奏でるなんてことは戒律上あり得ないことだそうで、
そういう意味でも「ビルマの竪琴」は完全なフィクション。
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悲惨な戦争を描いた映画ではあるんだけど、出て来る日本兵やビルマ人、さらに英軍までもが、
おおむねヒューマンな心を持つ者として描かれてるのはこの映画の格調を高くしていると思う。
水島がビルマに残ろうと思ったキッカケも、死んだ日本兵の墓で賛美歌を唄う英国人たちの姿を
見たことで、ワルモノって出てこない。現地ビルマ人(塀の外)と日本軍捕虜(塀の中)の関係も
素朴かつ友好的に描かれてる。

前にも書いたけどミャンマーは対日感情が極めて良い国と言われる。
「対日感情がメッチャいい国が世界に二つ、それはトルコとミャンマーだ」なんて話も読んだ。
対日感情がイイというのは大変有り難いけど、第二次大戦中、日本軍はビルマを実質統治した。
戦争中は相当メイワクもかけたはずなのに、中国や韓国と違ってなぜ対日感情がイイのか?

歴史的には「日本統治→日本の敗戦が独立の契機になった」ってことがあるかもしれない。
これはミャンマーに限らず、東南アジアの国にけっこう共通するブブンなのだが。

イ課長が漠然と思ってたのは「ビルマの人にとっての日本兵って“みじめで悲惨な敗残兵”という
イメージが強いからではないか?」ということ。この映画も敗色濃厚となった日本兵の部隊が
タイに逃げようとしてビルマを敗走するシーンから始まる。
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おそらく当時のビルマ人にとって日本軍って、長く支配者だった(120年以上)英国軍を追っ払い、
英軍に代わってミャンマーを統治した・・と思ったらアッという間(約3年)に「腹をすかした
哀れな敗残兵」になった兵隊さんたち、というイメージが強いんじゃないかなぁ?幸いなことに
虐殺者とか侵略者という記憶が強く残るほど長く居座ることがなかった。

映画の中で三國連太郎隊長率いる部隊が捕虜になるのはミャンマー南部のムドンって町で、
これは実在の町だ。それなのになぜか劇中にヤンゴンのシュエダゴン・パゴダが出て来たり
するけど、実際に市川崑はこの時一週間だけビルマ・ロケしたんだと。しかしたった一週間じゃ、
ヤンゴン以外の街に移動して撮影するヒマなんてなかったんだろう。
 
しかしだね、映画を見てイ課長がギョッとした箇所がある。ある寝釈迦が写った時だ。
非常にヘンな姿の寝釈迦で、容貌魁偉と言ってもいいんだけど、それに見覚えがあったんだよ。
DVD画面からキャプチャーできないようになってるから、画面をお見せできないのだが

いやしかし、この容貌魁偉な寝釈迦は明らかに見覚えが・・あ、アレか?
ヤンゴンのチャウッターヂー・パゴダに展示されてた写真(をイ課長が撮った写真)と比較した。
コレだよコレ。間違いない。ヤンゴン市内にあったはずだから(今はないが)、市川崑が
現地ロケした時も、この寝釈迦は撮影可能だったわけで、映画に写ってて不思議はない。
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何ともすごい姿カタチの寝釈迦だ。っていうか、これだけみるとお釈迦様に見えない(笑)。
上の写真下にある「Wingaba Rangoon(Yangon)」で検索するとこの写真が出てくる。
さらに調べると、Wingabaっていうのはおそらくチャウッターヂー・パゴダがあるあたりの
地名じゃないかと推測される。
 
この顔のアップが映画の中でも出てきたよ。市川崑もインパクトある姿に驚いたんだろう。
だがこの衝撃的な見た目を持つ寝釈迦像は現在なくなってて、今はコレとは180度正反対の、
妖艶美白仏がある。それについてはいずれ詳しく書きます。あれも別の意味でインパクト十分。
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ミャンマー行ったあと見ると、考えるところ、思い出すところの多い映画でした「ビルマの竪琴」。
ちなみに中井貴一主演の1985年版は見てない。あちらは石坂浩二はじめ主要キャストはみなさん
ご健在だ。しかし1956年版となると、安井昌二も三國連太郎も西村晃も北林谷栄も、もちろん
監督の市川崑も、みなさん天国に行ってしまわれた・・・。

 

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by tohoiwanya | 2017-10-30 00:07 | 2017.08 ミャンマー・タイ旅行 | Comments(2)
2017年 10月 16日

廃墟の中の廃墟・コーフ城をめぐる

本日の記事はいわば「コーフ城写真集」。
コメントより写真中心で構成したいと思う。

コーフ城って“現役”当時はこんな感じだったらしい。
たぶん11世紀に出来たはずだから、アンコール・ワットなんかよりちょっと古いことになる
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しかし現在の姿はこう。強者どもが夢のあと。
復元図だと手前の斜面にも城壁だの小塔だの階段だの、いろいろあったみたいだけど、今や
草だけになった斜面の一本道をひたすら登る。
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ゆるやかな丘に見えるけどけっこう高度があって、丘の上から入口を振り返るとこんな感じに見える。
向こうにあるのが町で、大多数の人はあの町のバス停で降りて歩いてくるはず。
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さて、それではいよいよ内部に入ってみよう。廃墟だから内も外もないんだが。

  おおっ・・・・
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      おおおおっ・・・・
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いやこれはすごい。事前に想像した通りの石造りの廃墟だといえばそれまでの話だが、
確かにその「廃墟っぷりのよさ」は素晴らしい。さすがは英国を代表する廃墟の中の廃墟。
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          うーーむ・・廃墟だ・・いいねー。
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構造物の内部に入れる部分もある。
床にたまった水に光が反射する・・・うう・・イ課長はこういう被写体に弱いのだ。
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最初のうちはイ課長とトホ妻は並んで歩いてたんだけど、二人ともだんだん廃墟に
魅了されて相手のことはどうでもよくなり(笑)、いつの間にかバラバラになってしまった。
ま、そんなに広大なところじゃないから迷子にはならない。

いやーーーしかしいいね、コーフ城は確かに大した廃墟だ。ここには廃墟の美がある。
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元々は立派な城が今こういう廃墟になったからには、本来なら地面の上に崩れた石材が
ゴロゴロしてていいはずだ。しかしそういうのは全然ない。下は草だけ。おそらく
崩れた石材は片付けたんじゃなく、長い年月の間に持ち去られ、別に石造りの建物に
流用されたんじゃないだろうか(ローマ時代の遺跡にはそういうのが多いらしい)。

さっきも言ったようにそんなに広大な遺跡じゃない。
しかしけっこう長い間ここにいたと思う。同じようなところをグルグル回りながら
その「廃墟っぷりのよさ」を心の中で賞賛し続けた。
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ここにはウィリアム征服王にまつわる歴史もいろいろあるんだろう。
しかしそういう歴史背景を調べようという気にはあまりならない。
何の音も聞こえない静かな廃墟の中を一人さまようのがとにかく気持ちイイ。
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コーフ城、こういうところなんです。いいでしょ〜??
ロンドンから日帰り可能。有名観光地というほど有名なスポットじゃないけど、
廃墟マニアにはたまらないと思うよ。トホ妻なんて恍惚としてさまよってたからね(笑)。

 
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by tohoiwanya | 2017-10-16 00:51 | 2016.06 英国銀婚旅行 | Comments(0)
2017年 10月 10日

コーフ城への道のり その1

ミャンマーからバンコクに話が飛んだと思ったら、今度はいきなり英国ネタ。
さすがに自分でもいかがなものかと思うけど、昨年の英国銀婚旅行で重要なネタが一つ残ってる。
いつまでも残しておけんから書く。一応前回記事とは「廃墟つながり」ということで・・・(笑)。

話は旅行前、トホ妻がある本で、英国の某廃墟に関する記述を読んだところから始まる。
ソコは「廃墟の中の廃墟」と言われるほどの、英国を代表する廃墟。まさにキング・オブ・廃墟。
廃墟好きのトホ妻はたちまち魅了され、「行きたい」と言い出した。今回の銀婚旅行は基本的に
ヤツの好み優先。たちまち交通手段検討から時刻表調べ、切符予約作業等々が全てイ課長の肩に。
何て献身的な夫。結婚生活が25年もったのはひとえに・・まぁそんなことはどうでもいい。

その「廃墟の中の廃墟」とはコーフ城というところなのである。

甲府城じゃありませんよ?コーフ城。コー・・だから甲府城じゃねぇっつってんだろッ!
漢字じゃなくカタカナで言えってぇの!(ムリ)

ここ、何でも征服王ウィリアムの頃に作られた城だそうで、今は完全なる廃墟。ただその廃墟っぷりが
あまりにも素敵すぎて、現在では英国ナショナルトラストが管理する立派な観光地になった。
写真を見ると確かに廃墟ムードたっぷりで良さそうなんだよ。
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調べてみると英国のドーセット州というところにあるようで、一応ロンドンから日帰りはできそうだ。
ロンドンから鉄道で2時間。乗るのは切符予約時に大トラブルをぶっコイてくれた南西鉄道。
南西鉄道でプールって駅まで行き、そこからさらにバスで約50分。ただしバスの便数は少ない。
メチャクチャ難しいわけでもないが、ラクでもない道のりってとこか。

コーフ城への行き方について詳しく書いたものなんて少ないから、ここでは詳しく書くぞ。
結局ロンドンからの往路のタイムスケジュールはこうなったのである。
08:35ロンドン・ウォータールー駅発 ⇒南西鉄道 ⇒ 10:36プール駅着
11:30プール駅発 ⇒ブリーザーバス ⇒ 12:19コーフ城着

バス待ちだナンだかんだで片道4時間近くかかる。
最初にコーフ城への行き方を調べた時、「プールからバスに乗って○○分」と書かれたものを読んで
どっかの市民プール前のバス停から乗るんだと勘違いし、「どこの町のプール?!」と思って
アセッたバカは私です。プールっていう地名なの。イギリス南岸、ポーツマスなんかと近い。
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というわけで2016年6月20日の月曜日、大廃墟観光のスタートはおなじみウォータールー駅。 
恨み重なるクソバカ鉄道会社・南西鉄道だからこそというべきか、乗車ン時もひどかったよー?
なかなか改札口がオープンしねぇで、発車ギリギリにようやくゲートオープン。
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当然改札口にはアセッた乗客が殺到だ。そこを何とか通り抜けて自分の乗るべき車両に向かって
歩いてる途中でもう発車のベル。ヲイこんなのアリか。改札開始から発車まで短すぎるってば!
最後に改札口を抜けた乗客が足の弱ったお年寄りだったら絶対乗り遅れてる。なんたるヒドさ。
南西鉄道社員は全員英国陸軍の射撃訓練の的となって、国家に奉仕して死ね。
(あれは鉄道会社じゃなく、駅側の運営のマズさだろうとは思うが)
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アホダラ南西鉄道だからさらに故障して遅延して脱線転覆事故起こして・・ということはなく、
一応ほぼ定刻通りにプールに到着。見てよこの景色。ドンヨリと曇る空、そぼ降る雨。
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何なのこの風景。まさに灰色の港町。「何て魅力なさそうなトコだろう」と思ったよ(笑)。
ま、行くのはコーフ城なわけでプールの町自体に用はないのだが。
 
だがここからコーフ城までの道のりはまだまだ長い。ここからバスでさらに50分。
当然、話は次回に続くのである。

 

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by tohoiwanya | 2017-10-10 23:36 | 2016.06 英国銀婚旅行 | Comments(2)
2017年 07月 28日

グリニッジ天文台【計時技術編】

グリニッジ連載シリーズ、今日で終わらせますからね(笑)。

子午線と標準時は切り離せないテーマだから、グリニッジには時計の展示もワンサとある。
たとえば入口にはこんな由緒ありげな24時間時計が。イ課長がこの写真を撮ったのは
グリニッジ標準時10時29分頃だったわけだ。
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前回記事で書いたハリソン氏が作ったクロノメーターがここに展示されてるってことは知ってた。
しかしどこにあるのかわかんないし、形も知らないし、いちいち英語の説明読んで探すのは
オックウなので(笑)いいかげんに見て回ってた。

実際にはハリソンは最初の時計(1735年作成のH1。Hはハリソンの頭文字だな)から始まって
改良版のH2、さらに改良版のH3と作っていったんだけど、たまたま偶然というべきか、
イ課長が「うわーすげぇメカだなこれ」と思って撮った下の写真がその一つだった。
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写真で確認するとこれはH2だと思われる。1739年に作られた。
写真じゃ見づらいけど、プレートにGeorge The Ⅱって文字があって、その奥、さらに見づらいが
Harrisonという文字が見える。ってことは、この時計を作った頃は後にハリソンを助けてくれた
好人物王ジョージ3世のさらにお父ちゃんが王様だったんだな。

このH2もすでに十分高い精度だったけど、揺れる船に置くにはまだちょっとデカくてかさばる。
しかしハリソンはH3、H4と改良版を作りつづけ、最後のH5にはどのくらいになったかっていうと
ここまで小さく使いやすくなった。これなら文句ナッシングでしょう(写真はWikipediaから)。
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おお、ハリソンさんの肖像画もあるよ。
生前は英国議会のイジワルで時計に難癖つけられたり賞金なかなかもらえなかったりしたけど
後世クリニッジ天文台で、こうして巨大な肖像画つきで栄誉を称えられるのは喜ばしい。
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下も何気なく撮った写真なんだけど、後ろの説明に lunar-distance method ってあるから、
クロノメーターの対抗技術だった月距法のことに違いない。詳しくは知らないけど、月距法って
測定した後にこの写真にあるような分厚いデータ集と照合しながら計算を必要としたようで、
使い勝手は時計より圧倒的に悪かったらしい。ま、これらも帰国後に知った知識だが(笑)。
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いやーグリニッジ天文台の展示はけっこう面白かったよ。
子午線と標準時という、世界でここだけのウリがあるから、展示内容もそれに集中特化してて、
なかなか見応えがあった。

ちなみに、グリニッジ天文台の外観はこんな感じ。塔の上の赤いタマが目につく。
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これも帰国後に知ったんだけど、この赤い玉、午前11時55分になるとスルスルと引き上げられ、
正午と共にストンと下に落ちるんだと。要するに一種の時報で、正式には「報時球」っていうらしい。
へぇ~・・そうだったんスか。現場にいる時はそんなこと全然存じませんでした。

世界から観光客が集まるグリニッジ天文台だけに、ミュージアム・ショップも充実してる。
本初子午線グラスに本初子午線ビールを注いで、一杯いかが?
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時計もいっぱい売ってる。グリニッジに来た記念にクラシックな懐中時計とか、
ちょっと欲しくなるよねぇ。
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科学史ファン・イ課長としてもグリニッジ訪問記念に何か買って帰りたい。 
で、買ったのがコレ。方位磁石だな。ただ、普通の磁石より立派。フタの部分に細い線があって、
この部分に目をくっつけて測るだかナンだか、とにかくそんな使い方をするらしい。
買ったはイイけど使い方をよくわかってないのである(笑)。
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いやーーグリニッジ良かったス。天文台テラスからの眺望もたいへんよろしい。
大して期待してなかったけど、ロンドンからちょっと足を伸ばした観光スポットとしてはお勧め。
一連のグリニッジ関連記事を書くためにあれこれ調べて、ずいぶん勉強にもなったぜ。
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というわけで集中科学史講座「グリニッジ天文台」、これにてお開きとさせていただきます。
皆さまの科学知識に貢献するイ課長ブログがお送りいたしました(笑)。

  

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by tohoiwanya | 2017-07-28 00:04 | 2016.06 英国銀婚旅行 | Comments(2)
2017年 07月 26日

ジョン・ハリソンという人

計時技術編の前にやはりこの人のことを書いておかねばならぬと気付いた。

英国ってわりと階級意識が強い国のはずで、偉大な学者や政治家になった人には立派な家柄の
出身者が多い。そういう家柄じゃないと高等教育を受けられなかったからね。出自がモノをいう。
昔はその傾向がさらに強かったはずだ。

しかしそんな英国でも時として低い身分出身の、輝ける才能の持ち主が歴史に名を残す。
ニュートンなんかはわりとそうで、ケンブリッジ大学に入った時は教授の小間使いをして
その代わり授業料や食費は免除されるという身分。つまり自費じゃ授業料を払えなかったわけだ。
以前に書いたファラデーも平民出身で、後年大物理学者として尊敬を集めるようになっても
高等数学はできなかったらしい。

本日の標題であるジョン・ハリソンという人も平民出身でありながらその才能と技術で
科学史に名を残した英国人の代表的存在といえるだろう。

ハリソンの唯一最大の業績、それはクロノメーター、つまり船の航海で使用できる極めて高精度な
機械式時計を発明したことによる。これこそ経度測定法のキーテクノロジーで、この発明がなければ
英国が後に世界一の海運国になれたとは思えない。

大航海時代以来、広大な海で自分の船の位置を知る必要性は極めて高かった。
原理的には太陽が24時間で一周360度回るわけだから、基準地(たとえばグリニッジ)から
南中時刻が1時間ズレてれば経度にして15度、2時間なら30度違ってることがわかる。
要するに正確な時刻さえわかれば自分のいる経度もわかるわけだ。
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1714年、英国政府は海上での正確な経度測定技術を発明した者に2万ポンドの賞金を与えると
宣言した。経度を正確に知ることはそのくらい切実なニーズがあったわけだ。
高等教育を受けた学者様たちは天文学的なアプローチ(月距法)で経度を知るという方法を
研究したけど、これには膨大な観測データ整備や計算を必要とするというネックがあった。

もう一つは精密機械工学的アプローチで、要するにどエラく正確で船上でも狂わない機械式時計を
作るという方法だ。それさえありゃ「あ、グリニッジと2時間ズレてるから30度違うんだ」ってことが
すぐわかる。しかし振り子時計しかないご時世にそんなの夢のような話。だが一介の時計職人だった
ジョン・ハリソンは自らの才能を生かし、この賞金獲得にチャレンジした。その時ハリソン21才。
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彼は長い年月をかけて正確な時計を造り、それをさらに改良し、さらに改良を繰り返した。
しまいにはほとんど懐中時計程度の大きさで、5ヶ月船の上で測定しても誤差15秒という
驚異的に正確な機械式時計を作るに至った。

だが上流階級ぞろいの英国議会の紳士がたは平民出身のハリソンに賞金を出すことを快く思わず、
難癖をつけてはチビチビ払い、何度も改良と試作を要求し続ける。で、疲れ果てたハリソンは
とうとう国王に訴えたんだな。

ハリソンに同情した国王は自ら臨席する時計の精度実験を命じた。もちろんそこでも彼の時計は
申し分ない実験結果を示したから(一日に1/14秒の誤差だったとか)国王は激怒したらしいねー。
約束通り賞金払えテメエら!と議会にカミナリを落とした。

その国王ってのが例のトラファルガー広場に騎馬像があった放蕩バカ王ジョージ4世・・・の
お父ちゃんだったジョージ3世(笑)。病気で頭がおかしくなる前のジョージ3世は好人物の
王様だったらしいけど、このエピソードにもその人柄があわられている。

で、ようやく賞金の残り全額がハリソンに与えられた。その時ハリソン80才。
クロノメーター発明者としての名誉を生きてるうちに得られたのは幸いだったといえる。
21世紀の今日でもハリソンは経度測定法確立の最大の功労者とされている(と思う)。
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以前、シャクルトンの記事でエレファント島からサウス・ジョージア島までの奇跡の航海の話を
書いたけど、あの時彼らが目的の島まで辿り着けたのも結局は海の上で自分たちのいる位置を
どうにか把握できたからで、彼らもクロノメーターと六分儀だけは持ってたのだ。

グリニッジ天文台にはそんなハリソンに関する展示もある。
科学史の本でハリソンの名前や業績を知ってたイ課長としては、やはり興味あるところだ。
しかしハリソンの業績説明で長くなっちまったので展示の詳細は次回。すみませぬ。
シャクルトンとかハリソンとか、英国人には業績紹介だけで長引く人が散見されて困る(笑)。

 

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by tohoiwanya | 2017-07-26 00:03 | 2016.06 英国銀婚旅行 | Comments(2)
2017年 07月 24日

グリニッジ天文台【子午線編】

ちょいと箸休めを挟んで、グリニッジ天文台に戻りましょう。
「子午線編」っつうからには、別の編もあるみたいですねー、続くんですねー、こわいですねー。

さてだ。現在は博物館として公開されているグリニッジ天文台。
展示内容も普通の天文台とは違って、子午線とか標準時とかに関するものが多い。
「ここならではの展示」ってことだよな。本日はその中でも子午線の話をしたい。
 
まずはいきなりで恐縮だがイ課長のアホ面写真から。
下の写真でイ課長がまたいでいるのがグリニッジ子午線で、このときイ課長は地球の
東半球と西半球の両方に足を置いたことになる。グリニッジ天文台に来た観光客が必ず撮る
記念写真の定番ポーズ。
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とーころがですよ。
この記事を書くためにちょっと調べてみたけど、子午線の世界も深いんだねー。
上の写真でイ課長がまたいでいるのは正確には「エアリー子午線」と呼ばれるものなんだけど
しかし子午線はこれだけじゃないのだ。

初代グリニッジ天文台長だったハレー(ハレー彗星のヒト)とか、第3代天文台長だった
ブラッドレー(この人も科学史では有名)とか、いろんな人が子午線決定には力を尽くしてて、
エアリー子午線とは43m離れた別の子午線とか、6m(!)離れた別の子午線とか、いろいろあるのだ。
下は6mしか離れてない子午線の位置表示で、エアリー子午線のすぐそばにある。
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それだけならまだいい。20世紀になってさらに科学的な子午線基準が定められた。
IERS基準子午線っていうらしいんだけど、それはグリニッジ子午線から西に102.478m離れてるんだと。
科学的厳密さに即して言えば上の写真でイ課長がまたいでいる線には何の意味もないわけだ。

でも一般人が学校で習う子午線といえばやっぱグリニッジのココだよな。いや勉強になった。
訪問前にこういうことを予習しておけばもっと有意義な訪問になっただろうに(笑)。

緯度には南極・北極っていう基準があるけど、経度には地球上で基準とすべきところがない。
しかしどっか基準を作らなきゃっていうんで、グリニッジにしようってことになったのは1884年の
ことなんだと。その時点ですでにグリニッジを基準にしたイギリス式の海図が世界中でかなり
普及してたから、ここが良かろうということだったようだ(フランスだけは抵抗したらしいが)。

建物の中はエアリーさんが子午線を観測した時の機器が保存されている。
下の写真の下の方、木の床に細い銅板みたいなのでラインがあるじゃん?これが子午線。
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そのまま目を転じると子午線のラインはこんな風に窓の真ん中を通って外に続いている。
エアリーさんは上の写真の巨大な黒い歯車みたいな装置(たぶん子午環っていうんだと思う)で
窓の中心を基準に観測したようで、その窓の中心がそのままグリニッジ子午線になったわけだ。
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お、エアリーの前に子午線を観測したブラッドレーさんがいる。こういう顔してたのか。
たぶん多くの業績を残した人なんだろうけど、科学史においてブラッドレーといえば
光速度測定の歴史でガリレオ、レーマーに次いで必ず取り上げられる人だ。彼が発見した
光行差を用いた光の速度計算は約30万km/秒で、ほぼ合ってた。
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実はイ課長、文学部出身のくせに科学史の本を読むのがけっこう好きなもんで、
グリニッジ天文台の展示で名前を聞いたことある人を見つけると、やっぱちょっと嬉しくなる。
イ課長ですら知ってる人がいるくらいだから、天文史マニアなんかにとっちゃここはもう
たまんないと思うよ。

グリニッジ天文台は17世紀に設立されたらしいけど、その頃の観測機器なんかも残ってる。
現在に比べりゃオモチャみたいな性能なんだろうけど、それでも18世紀に光速度がほぼ正確に
計算できちゃったんだからすごい。
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子午線について調べたらいろいろ勉強になったので、ついその成果をいろいろと書き連ねて
しまいました。次回更新はグリニッジ天文台ならではのテーマその2として、計時技術と
経度測定法についてご紹介しますです。いつから科学ブログになったんだ?ここは(笑)

 

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by tohoiwanya | 2017-07-24 00:20 | 2016.06 英国銀婚旅行 | Comments(2)
2017年 07月 20日

グリニッジに行ってみよう その2

エレベーターを待ってると自転車ニイチャンだの、乳母車ママだの、だんだん人が増えてきた。
下から上がってきたエレベーターにもけっこう人が乗ってるから、人の通行はけっこう多いトンネルみたいだ。
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ぐぃーん・・と下に降りる。
別にダイヤモンド鉱山に降りるワケじゃないから、階段でも十分なくらいの深さだけど、それでもちょいと
ワクワクするってもんだ。
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どぉーん。これがトンネル。ただし名称は知らない。
地図で見るとグリニッジあたりのテムズ川って川幅はせいぜい400mくらいに見えるから、トンネルの長さも
500mはないんじゃないかなぁ?でも川の下のせいか、すげー空気がひんやりしてて涼しい。
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もし今この瞬間、地震が起きてこのトンネルの天井にピキッとヒビが入ったら、その瞬間にテムズ川の水が
どしゃーーーっとトンネルに流れ込んできてオレたちはたちまち溺れ・・ずに、どっちかの出口に流されて
意外に助かるのかな?なんて考えたりもしたけど、もちろんそういうことはなかった。

ほどなく対岸、つまりサウスバンク側に到着。ここにもエレベーターがあったけど、今度は階段で
地上に出ることにした。ビルでいえば3階分くらい段数じゃなかったかと思う。やっぱそれなりに深い。
f0189467_00310098.jpg
 
・・え?トンネルの写真は1枚だけかって?
いや実はもっとあるんだけど、イ課長やトホ妻のツラが写ってるやつが多いもんだから
掲載可能なのは1枚だけなんス、すんません。
 
明るい外に出てみるとすぐ目の前に帆船カティ・サーク号が見える。おおおお。
そういえばカティ・サークっていうウィスキー(だっけ?)もあったよねぇ。たぶんこの船の
名前からとったんだろうな。昔は紅茶を運ぶ船だったらしい。
f0189467_00310016.jpg
 
なかなか気分のいいグリニッジ到着じゃん。「カティ・サーク」っていうDRLの駅もあるから
そこまで乗るのが早いんだろうけど、イ課長としては一つ手前で降り、トンネルで川をわたり、
地上に出たところで帆船を目にして驚くというルートもお勧めしたい。

このグリニッジは天文台をはじめとした一帯が海事都市として世界遺産になってる。
確かに歴史ある町並みという感じだ。天文台があるくらいだから昔は田舎だったんだろうけど
今はDLRも通ってるし、赤い二階建てのバスがあるから、ロンドン交通局の管轄内なんだろう。
ロンドン郊外っていうより、完全にロンドンの一部だね。
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川べりに近いところにあるカティサーク号から南、つまり川から遠ざかる方向に歩いて行くとすぐに
広大な公園になる。ケンジントン公園みたいにところどころに建物があったり池があったりする
わけじゃなく、芝生が生えたなだらかな斜面と木がいっぱいあるだけ。もしかするとここは
特にナントカ公園っていうような名称もないのかもしれない。
f0189467_00323445.jpg
 
しかしここはすごくキレイなところだったよ。
造園されたって感じがなくて、昔からずっとこんな感じの斜面だったんだろうって気がする。
学校の生徒たちが揃って(おそらく天文台の)見学に来てたり、かと思うとイヌが走り回ってたり、
天気がよかったこともあって、ゆるやかな斜面を歩くのが全然苦にならない。
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丘を登って後ろを見ると、おおーー何と良い景色。
遠くに見える二つのドームのある建物は旧王立海軍大学ってとこだそうで、この建物の設計者である
クリストファー・レンはセントポール寺院の設計者として知られている。うーむ・・来る前はさほど
期待してたわけじゃないけど、グリニッジ、いいトコじゃん。
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まぁここまで来たらコトのついでに有名なグリニッジ天文台を見学していくか。
別に天文台見学が目的で来たわけでもないんだけど、せっかく地球の経度0地点に来たんだから
子午線が通る場所、世界標準時の基準地点グリニッジ天文台を見ずに帰るわけにもいかんだろ。

というわけで、次回はいよいよグリニッジ天文台だ。
ここはけっこう面白かったし、写真もいっぱいあるからジックリご紹介するぞ。

 

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by tohoiwanya | 2017-07-20 00:11 | 2016.06 英国銀婚旅行 | Comments(0)
2017年 07月 13日

王立地理学会のシャクルトン

王立地理学会の場所を調べたら、ホテルから歩いても行ける場所だと判明した。
それが実は滞在最終日の朝、ケンジントン公園を横断して行った目的地だったのだ。
場所はロイヤル・アルバートホールのすぐ近く。

これが由緒ある王立地理学会、ロイヤル・ジオグラフィカル・ソサエティの建物なのである。
うーむ・・・確かに古色蒼然たるレンガ造りの建物が歴史を感じさせるぜ。
しかしイ課長の興味は学会そのものではない。シャクルトンの銅像なのである。
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しかし銅像ってシャクルトンだけなのだろうか?英国の有名な探検家は他にもいる。
あるとすればリヴィングストンかスコットか・・と思ってたけど、予想通りリヴィングストン博士発見。
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リヴィングストンについてはイ課長も詳しくは知らない。
アフリカ探検で大変な功績を残した人で、そのままアフリカで行方不明になった。
新聞記者スタンレーが彼を捜しに行き、アフリカの奥地でリヴィングストンを見つけたことは
英国では天下の大ニュースとして報じられたらしい。

リヴィングストン博士の下を通ってカドを曲がると・・・お!ありましたシャクルトン。
いかにも極地探検家らしいナリで銅像になっている。
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この人の人生はホント、波乱万丈だった。
前回書いた南極横断の失敗⇒2年近くにわたる漂流⇒奇跡の航海⇒奇跡の救出劇だけでも
十分波乱万丈だがこの後がまたスゴい。

植村直己さんなんかもたぶんそうだったんだろうけど、探検家ってどうも特殊な人種らしい。
雪山だの南極だので苦しい目にあってる時は「二度とこんなツラい探検するもんか」と思うけど
いざ平穏な日々に戻るとドウしようもなく危険な探検に再び行きたくなってウズくんだな。
シャクルトンもあれだけ大変な目に遭いながら、英国に戻ってしばらくするとウズいた。

で、1921年に再び南極に向かった。この時の目的は「亜南極の探検旅行」という、極めて
バクとしたもの。要するに目的ウンヌンより、とにかく何でもいいから理由をつけて、
もう一度南極に行きたかったんだと想像される。
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1922年1月、シャクルトンはあまりにも思い出深いサウスジョージア島に再び寄港。
例の「4人め」の存在を感じながら凍死寸前になりつつ山脈を横断した、あの島だ。
しかし体調が悪化し、船内で医師の診断を受けた。この時の医師は例の大漂流+奇跡の救出の時の
探検に同行した人で、あれほど生死の境を経験したにもかかわらず、前回探検隊の隊員の多くが
この時にも再び志願して参加したらしい。

医師はシャクルトンに「もうあまりムリすべきではないですよ、ボス」とか何とか忠告したらしい。
「君はいつも私に何かやめさせようとするな、今度は何をやめろっていうんだ?」
「まずは酒ですね、ボス」
この会話の直後、シャクルトンは深刻な心臓発作に襲われ、そのまま死んでしまった。
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6年前に奇跡の航海で辿り着いた絶海のサウスジョージア島で死ぬというウソみたいな本当の話。
結局彼の遺体はそのままサウスジョージア島に埋められた。まさに本望というべきだろう。

彼の死後しばらく、英国では「南極の英雄といえばスコット」という時代が続いたようなんだけど、
1960年代頃から徐々に世間の評価が変わり、今じゃシャクルトンの方がすっかり有名になっちまった。
「真のリーダーのあるべき姿」的なモデルとしてよく取り上げられて、ビジネス研修なんかでも
“教材”になることがあるんだと。
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しかしイ課長はビジネスリーダー論にシャクルトンを持ち出すのは個人的には好きではない。
彼は驚くほどの能力と体力とリーダーシップ、そして何より強運を持ったすげー探検隊長だった。
それでいいじゃん。

たまたま本を読んでいなければ決して来ることはなかったであろうロンドン王立地理学会。
しかしイ課長はシャクルトンの銅像と一緒に記念写真も撮ってたいへん満足なのでありました。
結局のところイ課長も単なるミーハーなのである(笑)。
 

 

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by tohoiwanya | 2017-07-13 00:04 | 2016.06 英国銀婚旅行 | Comments(0)