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2019年 10月 14日

イーサーンというところ 2

いや大変な台風でした。
多摩川沿いとはいえ府中近辺は幸い大した被害はなかったけど、下流は洪水。
まぁ世田谷あたりの洪水もほかの県の被害に比べればまだしも、なのかもしれんが。

こういう時はオチャラけたことも書けないので、イーサーンの話を続けよう。
イーサーンについてはもうちょっと書いておきたいことがあるのだ。

イーサーンは貧しい地域。そういうイメージがあり、実際そうなんだと思うけど
ラオスからメコン川をはさんだ対岸イーサーンにかけての地域って、民族学的?に
みるとミョーなところでもあるんだよね。

多民族国家ラオスの中で最も多いのはラオ族で、国内に何百万人といる。
ラオスは国全体でも人口が一千万人いないから、何百万人のラオ族は圧倒的シェア。
だが驚くべきことにタイ国内のイーサーンにはラオ族が1,500万人くらいいるらしい。
ラオ族の人口はラオスよりタイの方が多いわけ。その大半はイーサーンにいる。
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昔は戦争に勝った方が「人間」を労働力の戦利品としてゴッソリ持ってくことがあったようで、
タイとラオスの戦争のあと、大量のラオ族がメコン川西岸に強制移住させられたらしい。
さらに自発的移住もけっこうあったみたいなんだよね。イーサーンが貧しい土地だっつうても
山岳国ラオスから見れば耕作可能地は広いし。さらに加えてラオスが社会主義国になった後、
タイに逃げたラオ族もかなりいるみたいだ。

このことがイーサーンというエリアにさらに特別な事情とイメージを与えてるようだ。
イーサーンはラオスと同様にモチ米を食うし、ラープも食う。言葉も似てる(らしい)。
どっちにも同じラオ族が住んでるんだから文化的に近似性が強いのは当然だ。しかし
この「ふたつのラオ族」の間にはビミョ~な断層があるみたいなんだよね。
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「オレたちの言葉がラオ語?冗談じゃねぇ。オレらが話してるのはイーサーン語だい」
というタイのラオ族もいれば・・

「あいつらは国を捨ててタイに依存した連中だ。ラオスのオレらと一緒にすんな」
というラオスのラオ族もいるらしい。タイとラオスの経済格差もあいまって、
同じラオ族の間でもそこにはいわく言い難い複雑な感情が残る。

だから、タイ中央部や北部みたいにタイ族が多いエリアの(タイ族とラオ族って
これまたビミョ〜に違うらしいのだ)人が「イーサーン」って言う時、そこには
「貧しい田舎」ってだけじゃなく「民族的な違い」というニュアンスもある(らしい)。
前回記事で「イーサーン」って言っただけで独特のアイデンティティがあるって
書いたけど、「イーサーン=ラオ族の多いエリア」っていう意識はあるみたいなんだよ。
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ラオスからイーサーンにかけてはラオ族の民族的連続性と、感情的断層とがある。
今回ラオスからバスで国境を超え、鉄道を乗り継いでバンコクまで移動したってことは
そういうエリアを飛び石宿泊で、陸路で通り抜けてきたことになる。

ま、もちろんタイ語もラオス語もできず、ラオ文化のこともよく知らないイ課長には
そういう民族的連続性や断絶を体感することなんてできないけどね。
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ただ、タイに入った直後のイ課長はラオス滞在中の口グセが抜けなくて、タイ人相手に
ラオ語で「コープチャイ(ありがとう)」って言っちゃたことが何度かある。
言ったあとで「あ、いけね」と思って相手を見ると、全く気にしてる様子がない。

イーサーンだからラオ語がスンナリ受け入れられたのか?それともガイジンの
言い間違いにいちいち反応しなかっただけなのか?

・・・それはわからないのである。

 


by tohoiwanya | 2019-10-14 00:05 | 2019.08 ラオス・タイ旅行 | Comments(0)
2019年 06月 28日

東南アジアのパン食文化を検証する その2

ベトナム、ラオス、カンボジアと違い、ミャンマーを植民地にしてたのは
食い物のマズさで有名な英国。だからこそミャンマーはトースト文化圏であると
考えられるわけだが、パンに関してだけ言えばミャンマーもフランスの植民地に
なってた方が・・いや何でもない。

さて、まずヤンゴンのホテル朝食を見てみると・・。
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トーストだ。うん、確かにこういう朝メシ食ったよ。写真見ると思い出す。
ということは、予想通りミャンマーのパンは「英国風トースト文化圏」であると
考えられるが、念のためにバガンのホテルも見てみよう。
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およよ?クロワッサン?おフランス風ではないか。
うーん・・これも、トーストを焼いてバターやジャム塗るのが面倒で、たまたま
クロワッサンを選んだという可能性はあるが・・・今のところ英仏パン比率は
1対1。最後のマンダレーのホテル朝食で決着をつけようではないか。
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だぁ〜〜・・そうだ。マンダレーのホテルじゃ朝メシは毎回お粥食ったんだ。
パンがどうだったのか不明。検証データとして使えぬ。ばかもの。

とりあえず、あの本で書かれてたように、ミャンマーには英国風トースト文化が
存在していることは間違いない。ベトナムやラオスの「フランスパンほぼ一辺倒」
ぶりに比べると、若干幅がありそうだけどね。クロワッサンもなんかもあったし。
ま、事例自体も少なすぎだが。

まぁいい。最後タイいってみようタイ。
英仏どちらの植民地にもならなかったタイのホテル朝食パンは果たして
英国派か、それともフランス派か。

バンコクだと朝食なしホテルってことも時々あって、パンが写ったホテル朝食の
写真は三つ。まず2013年のバンコクのホテル。
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・・・トーストだ。
次は、まだホテル評価を書いてないけど、去年泊ったバンコク、ホイクワンのホテル。
ここは毎日違う朝食メニューにしたんだけど、その1日目。
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・・・やっぱりトースト。
最後は、ついこないだ書いたスコータイのホテル。例の割れた薄いトースト。
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これらの事例から導き出される結論は?
英仏植民地の間にはさまれ、緩衝地帯としてドッチの植民地にもならずに済んだタイ。
パン文化に関してはどうやら英国の影響をうけた「トースト文化圏」のようであると、
そういう結論になる。

東南アジアではもう1カ国、シンガポール出張した時のホテル朝食を調べてみた。
シンガポールは英国植民地。やはりトースト文化圏のはずだが、写真見るとイ課長は
ぶどうパンなんか食ってやがって、これまたデータとしては役に立たん。

イ課長ブログはずっと「その旅行・その出張」ごとにまとめてカテゴリ分けしてる。
でも興味深い比較ネタがあれば、今回みたいに過去をホジクリだしてカテゴリ横断的に
比較するって企画も面白いかもな。大昔にアップした写真をエキサイトのサーバーから
探し出すのはけっこう面倒なんだが・・・。

 


by tohoiwanya | 2019-06-28 00:13 | 出張・旅行あれこれ | Comments(2)
2019年 06月 26日

東南アジアのパン食文化を検証する その1

こないだ、東南アジアの食文化に関する本を図書館で借りて読んだ。
対象はベトナム、ラオス、カンボジア、ミャンマーの4カ国で、全部イ課長が
行ったことある国だ。その本の中にこういう主旨の記述があった。

東南アジアの中でも旧フランス植民地だったベトナム・カンボジア・ラオスの3国は
フランス仕込みのパン文化が根付いてる。一方、旧英国植民地だったミャンマーは
パンといえば英国風のトーストである。


・・む? 
言われてみれば確かにその通りという気がするが、実際にイ課長が行った時の
ホテル朝食のパンはどうだったっけ?ベトナムとラオスのホテルはフランスパン
だったような記憶があるが・・だがこれは過去写真で確かめることが可能だ。

さらにもう一つ疑問が。
旧フランス植民地3国が「フランスパン文化圏」で、ミャンマーが「英国風
トースト文化圏」とするとだよ?どこの植民地でもなかったタイのパンは?
スコータイのホテルの朝食パンはトーストだったけど、他はどうだったっけ?
これも過去写真で確かめることはできる。

ひとつ検証してみるか。
ここからイ課長の「東南アジアホテル朝食パン確認」の大作業が始まった。
東南アジア植民地の歴史とパン食文化の関連性を自らの体験だけで検証。
なんて有意義な調査だ(笑)。

まずフランスパン文化圏からいってみよう。ベトナム・ラオス・カンボジア。
確かにこれらの国でトースト食った記憶ってあんまりないよなぁ。しかしここは
記憶に頼らず、写真に基づいて検証してみよう。

まず2013年サイゴンのホテルだ。およ?何だか丸っこいごまパンみたいなヤツだ。
ビュッフェ形式の朝食だったはずだが、ごまパンとは微妙・・でもフランスパンとは
いえないよな、これは。
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次に行ったホイアンのホテル。おお、これはいかにも美味しそうなフランスパン。
それにベトナムコーヒーのセットだった。これはよく覚えてるよ。
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ホイアンの次に行ったハノイのホテル。これも外がカリカリのフランスパンっぽい。
こういうパン食うと、パンくずの排出量も増えるんだけどね(笑)。
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2014年に泊ったサイゴンのホテルは?というと、これもフランスパンだよな。
最初のごまパンという怪しい事例はあるが、全体としてみればベトナムは明らかに
フランスパン文化圏で、予想通りと言っていい。
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ラオスはどうだ?これは2015年に泊ったヴィエンチャンのホテル朝食。
ベトナムのパンほど「皮がパリパリ」って感じじゃないけど、形はフランス風。
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ルアンパバーンで食ったホテル朝食はこんな感じ。
切ってあるけど、やはりフランスパン風のパンだ。
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ラオスもまたフランスパン文化が根強いことが顕著に表れておる。
やっぱ、植民地時代の宗主国の影響って大きいんだねぇ。

さてカンボジアは?2014年に泊ったプノンペンのホテルはというと・・・
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・・ありゃ?・・トーストだ。
しかし「トーストのみ」だったのか、複数あるパンの中からこの時たまたまイ課長が
トーストを選んだのかはさすがに覚えてない。他のパンがあればトーストは選ばない
ような気もするが・・焼くの面倒だし。

このあと泊ったシェムリアップの写真を確認すると、3日ぜんぶお粥食ってやがる(笑)。
ってことはカンボジアの朝食ではフランスパン食わなかったわけか。う〜む。

しかしこれだけの材料で「カンボジアはフランスパン文化が希薄」と言うのは危険。
ビュッフェ形式の朝食で、何の気なしにトーストやお粥を食うということだって
考えられるもんな。うーん・・。

まぁいい。カンボジアはやや疑問が残るものの、ベトナム・ラオスに関しちゃ
ホテル朝食はいかにもフランスパン文化を継承したものであることが確認された。
これは冒頭に書いた本の記述通りで、さほど驚くにはあたらない結果だろう。
そんな記憶があったのを、実際に確認したってだけの話。

さて、では旧英国植民地ミャンマーのホテル朝食はどうだったのか?
英国風のトーストか?さらに、間にはさまれて独立をキープした
タイの場合はどうか?しかし長くなったから続きは次回だ。

 


by tohoiwanya | 2019-06-26 00:20 | 出張・旅行あれこれ | Comments(2)
2019年 06月 24日

マンホールのフタからドイツ史を知る

スコータイ関連ネタが終わったところで、ひとつ欧州ネタをはさもう。

2月の出張でデュッセルドルフには1泊した。しかし街をゆっくり見る時間なんて
全然なかったのである。最初に行った2007年は午前中だけの滞在だったけど、
1泊した今回も自由時間の少なさに関しちゃ似たようなモンだったのだ。

なにしろ到着が夜で、その夜はそのまま関係者と会食だからどこも見ずじまい。
翌朝は10時から面談で、12:21発のICEでミュンヘンに移動っていうんだから、
街を見た時間なんて朝の面談の前と後、それぞれ20分くらいのもんだったのヨ。

そんなデュッセルドルフで、フと気が付き、ヘンな図柄だなぁ?と思って
撮った写真がある。これ。
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子供二人が・・・逆立ちしてるのか?何のために?そんな図柄がマンホールのフタとは?
逆立ちする子供とデュッセルドルフって何か関係あんの?帰国してから調べてみた。

これ、逆立ちじゃなくて側転してるんだって。側転する子供。
ラートシュレーガーっていう、やたらドイツ語的語感を持った名称まで与えられてて、
これはデュッセルドルフのシンボルらしいんだよね。だからマンホールのフタ以外に
噴水とかモニュメントとか、街のあちこちにラートシュレーガーがあるんだって。

ヨーロッパの街の紋章とか象徴っていうと鷲とか獅子とか、動物モノが多い。
同じドイツのベルリンは熊が街のシンボル。ことほどさように動物の図柄が多いはずだ。
それがまた何だってデュッセルドルフでは側転する子供なのだ?さらに調べた。
話は何と13世紀にまでさかのぼる。

当時、デュッセルドルフを首都とするベルク公国ってのがあった(らしい)。
その領主アドルフが、この辺一帯を権力下においてたケルン大司教と対立。市民軍を組織し、
ケルン大司教軍と戦い、1288年ヴォーリンゲンの戦いでみごと大司教軍を打ち破った。
その結果デュッセルドルフは都市の自治権を獲得したっていうんだから、大変な勝利だ。

当然、市民は凱旋兵士を大歓迎したわけだが、その時、町の子供たちが大喜びして
側転して兵士を出迎えた故事があるらしい。「側転する子供」って、はるか中世の昔、
デュッセルドルフの輝かしい勝利の歴史を象徴するオメデタい図象だったのである。

なーるほど。マンホールのフタからドイツ中世史にまでつらなっていく知の連鎖。
読者の知的欲求に応えるイ課長ブログ。しかし、この話を読んでイ課長は
もう一つのことを考えた。それは何かというと・・・


デュッセルドルフとケルンって、13世紀から仲悪いのかい!ってことだ。

この両都市、ライバル意識が強いというか、ほとんど犬猿の仲として知られる。
現在は同じ州で場所も近いのに。まぁ近いからこその仲悪さ、とも考えられるが。
その仲の悪さを表すエピソードで有名なのはこの話だ。

ケルンの酒場でアルトビアを(デュッセルの名物ビール)くれとか、逆にデュッセルの酒場で
ケルシュビアを(ケルンの名物ビール)くれなんて決して言ってはナラヌ。ヘタすると店から
つまみだされる(それ以前に、そもそもお互いに相手のビールは扱ってないらしいが)。


お互いに「けッ、あいつらごときに・・」って思いあってる仲みたいなんだよね。
2007年の出張ではデュッセルに午前中だけ滞在したあと、ケルンに移動して一泊した。
距離的には電車でせいぜい20分くらいしか離れてない。そのくらい近いのにねぇ・・。
ケルンでは有名な大聖堂も見学した。でもイ課長としてはケルンとデュッセルドルフ
どっちかが特に好きとかキライってことはない。当然だが。(写真は2008年のもの)
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ライバル意識の強い二つの都市っていう例は世界にけっこう多い。
豪州のメルボルンとシドニー、ベトナムのハノイとサイゴンとかね。しかし
ケルンとデュッセルドルフの場合、13世紀から続く歴史的遺恨があったという
ことを今回知って、今さらながらに感じ入ったわけですよ、イ課長は。

ケルンとデュッセルのサッカーの試合なんて、一種の代理戦争でもう大変らしい。
調べてみると、デュッセルドルフは現在ブンデスリーガ18チーム中、10位。
一方ケルンはというと、ブンデスリーガ2部の1位。に、2部ぅ??

まぁいま2部のトップってことは、来年1部にカムバックする可能性は十分ある。
イ課長としてはどっちかの街に肩入れしてるわけじゃないし、来季はブンデス1部で
ヴォーリンゲンの戦い・サッカー版」が復活しねぇかな・・なんて無責任に思っちゃう。

デュッセルドルフが試合に勝つと、やっぱ町の子供は側転するのかな?(笑)

 


by tohoiwanya | 2019-06-24 00:10 | 2019.02 欧州出張 | Comments(0)
2019年 06月 17日

スコータイ中央遺跡群を再びまわる

さて、いっぱい書いたスコータイ遺跡観光ネタもこれが最後。

南遺跡群を見終わったイ課長はふたたび青い稲妻号をコギコギして、堀に囲まれた
中央遺跡群に戻ってきた。ここは一昨日の夜、昨日の早朝と歩いて散歩してはいるけど、
広大だから見てない遺跡はいっぱいあるのだ。
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このワット・シー・サワイもその一つ。離れてるから散歩じゃここまで足を伸ばせなかった。
とうもろこし型のクメール風の塔があるってことは、時代としてはかなり古いのかも。
もっとも、コレは後世に修復されたっぽい。青シャツの観光客がジャマだ。
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不思議だったのはこの塔の装飾。
ほら、下の方はすごく精密なガルーダとかの彫り物がされてるのに、上に行くに従って
急速に手抜きになっている(笑)。これは元からこうだったのか?たぶんそうなんだろうな。
まさか「全部キチンと修復するのが面倒だったから」ってことはないよな?
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中央遺跡群は歴史公園として整備されてるから、「打ち捨てられた廃墟」的雰囲気は
ないけど、自転車で回ってるとホントに気持ちいい。ふらふらコイでると遺跡があり、
見学し、また次の遺跡を求めてフラフラとコぐって感じ。車は全然走ってない。
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再びワット・マハータートに行ってみる。夜とか明け方、誰もいない時に来たけど、
昼間のこの時間は観光客がワンサカいる。なるべく観光客を入れないようなアングルで
遺跡の写真を撮ろうとするけど、なかなか難しい。
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南遺跡群の「透明人間化した遊行仏」んところで会ったドイツ人家族と、ここでばったり再会。
例のテレ屋の男の子がイ課長を発見するや「お母さん、さっきのオジサンがいるよ!」って
走って知らせに行ったのがかわいかった。

このあたりはホントに、どこを向いても遺跡だらけって感じだ。これが遺跡ではなく
ちゃんと壁や屋根がある仏教寺院だったスコータイ王朝の頃(日本でいうと鎌倉時代頃)は
さぞかしすごい寺院密度の、壮大な都だったんだろうなぁ。
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あ、ラムカムヘーン王だ。
タイの歴史観によれば、このスコータイ王朝が「最初のタイ人の国」とされているようで、
それ以前はタイのタイ半は当時隆盛を誇ったクメール王国に支配される土地だった。
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ラムカムヘーン王はそのクメール人を駆逐して最初のタイの王朝を作った人というわけで、
大変尊敬されてて、チュラロンコン王など共に「タイ三大王」の一人とされる。
大学や通りの名前にもなってるし、タイの紙幣にも同じ銅像が印刷されてる。ほら。
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スコータイから発掘された「ラムカムヘーン大王碑文」っていう遺物があって、
そこにはスコータイ王国の楽園ぶりが「水に魚あり、田に稲あり」と記されている。
この碑文はラーマ4世による捏造説もあって、歴史的にはちょっとハテナマークが
つくんだけど、タイでは国語の教科書にも載るくらい有名。

イ課長にとってスコータイは「歴史公園に遺跡あり、食堂の天井にヤモリあり」かな(笑)。
ツアーで半日サッと回っただけのアユタヤ遺跡と違って、自分で自転車コイであちこち行き、
カンペーンペッ弾丸往復までやった。「スコータイ遺跡をたっぷり見た」という充実感は
極めて高い。青い稲妻号もご苦労だったな(笑)。
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いやー・・満喫させていただきました、スコータイ。
タイに行って、バンコクだけじゃつまんないから1~2泊どこかに遠出しようかな、と
お考えの方にはもう大お勧めですよ、スコータイ。
 
 


by tohoiwanya | 2019-06-17 00:23 | 2018.08 タイ旅行 | Comments(0)
2019年 05月 12日

円福寺と福善寺、そして対潮楼

いろは丸資料館を出たトホ妻&イ課長はぶらぶらと東方面に向かって歩く。
対潮楼というところを見ようと思っていたのだ。
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しかしさっそく道を間違えた(笑)。こんな小さな町で、どこまでバカなんだ。
対潮楼がある福善寺というお寺と思って着いた所が、実は円福寺という寺。

ところが、この間違えて行った円福寺にも坂本龍馬がからむのだ。
前回記事で書いたいろは丸事件の海難審判は、ここ鞆の浦で行われたわけだが、
円福寺は紀州藩側の宿舎になったところらしいのである。へぇ~~。

しかし紀州藩にまつわる何かが残っているというわけでもなさそうで、
寺を訪れる観光客も全然いない。イ課長とトホ妻だけですごく静かだった。

この円福寺の裏はすぐ海。写真左寄りに二重塔みたいなのが小さく見えるのに
ご注目いただきたい。このあともう一度見るからね。
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さて、それでは今度こそ福善寺の対潮楼に行こう。
円福寺から直線距離なら100mくらいしか離れてないが、道路ひとつ隔ててる。

この円福寺の中に対潮楼という広間があって、そこからの眺めは絶景として知られる。
かつては朝鮮通信使をもてなしたりもした場所なんだけど、あまりに景色がいいんで、
「日本随一の眺め=日東第一形勝」と朝鮮から来た人たちも絶賛したらしい。
さっき見た二重塔が正面に見えるでしょ?
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この場所もまた「坂本龍馬ゆかりの・・」なのだ。すごいね、竜馬さん。
対潮楼は例のいろは丸事件の海難審判会場になった。つまり紀州藩の人は
さっき見た円福寺に泊まり、この福善寺・対潮楼に交渉のために日参したわけだ。
出張先とはいえ、ホテルから仕事先までこれだけ近いのはうらやましい。
おお、ちょうど平成いろは丸が通っていくぞ。
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というわけで、ここまで鞆の浦で見た観光スポットはみーんな坂本龍馬がらみ。
しかし次回はガラリ変わってトホ妻好みの「ミンカ系」ネタになる予定です。

 


by tohoiwanya | 2019-05-12 22:44 | 国内出張・旅行 | Comments(2)
2019年 05月 11日

鞆の浦といろは丸と坂本竜馬

鞆の浦の観光ネタで最近有名なのが「いろは丸」、そして坂本龍馬だ。

ご存知ない方のために概略を。
坂本龍馬は有名な海援隊を組織し、海運商社業に乗り出したわけだが、その初期に
いろは丸という船(中古船だったと思うが)を入手した。その処女航海(中古だが)で
荷物を満載して長崎から大阪に向かうために瀬戸内海を航行していた。

ところが、夜間に紀州藩の船と衝突。いろは丸は沈没してしまった。何ということか。
この時、海援隊と紀州藩の賠償交渉が行われたのが鞆の浦であり、鞆の浦近くの海底に沈む
いろは丸は最近潜水調査され、その遺物もいくつか引き上げられている。要するに、
鞆の浦は坂本龍馬の「いろは丸事件」の舞台というわけ。

この「いろは丸事件」は日本で最初の海難審判事故とされる。日本最初の海難審判事故の
当事者になったり、日本最初のハネムーンを敢行したり(おりょうさんと薩摩へ)、
坂本龍馬って人はいろんな意味でトレンドリーダーだったんやねぇ。
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今や鞆の浦にとって「いろは丸」は重要な観光資源だ。いろは丸関係の史料を集めた
「いろは丸資料館」というのもある。それじゃまぁとりあえず、そこから見てみようか。
実はイ課長、出発前に「竜馬がゆく」のいろは丸事件のトコ読み返して復習した(笑)。

「いろは丸資料館」は例の燈籠の近くにある。
見学客は非常に少なくて、ほとんどトホ妻&イ課長の貸し切り状態。観光客のみなさまが
動き出すにはまだ時間が少し早いからねぇ。
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坂本龍馬の有名な写真だ。彼は江戸時代末期の日本人としてはかなり長身だったとされる。
現代におけるイ課長みたいな感じだったのかも(笑)。
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こっちには絵もある。写真でも絵でもイケメンという感じではないんだけど、女性には
モテたらしい。彼の奥さんになったおりょうさんの若い頃の写真はすごい美人だ。
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いろは丸事件の当時、すでに坂本龍馬は「討幕の志士」として有名だったから、当然幕府から
目をつけられてた。そこで、鞆の浦で行われた紀州藩との賠償交渉でもふだんは隠れ家に
身を隠していたらしい。その様子も再現されてる。そう大きな展示館じゃないけど
坂本龍馬ファン(これは日本にものすごく多い)にとっては興味深いところだと思う。
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いろは丸資料館を出たトホ妻とイ課長は、雨上がりの鞆の浦をぶらぶらと歩いて
大きなお寺の方に向かった。実はそこもまたいろは丸事件・坂本龍馬にゆかりの
場所なんだよね。それで、その場所の観光価値がぐっとアップするとしたら、
坂本龍馬って人は大した観光資源だよ、ホント。

 


by tohoiwanya | 2019-05-11 00:04 | 国内出張・旅行 | Comments(0)
2019年 03月 13日

ジム・トンプソンハウスというところ

ジム・トンプソンハウスの続きね。

見学ツアーの最初、玄関とかエントランスホールあたりまでは撮影可だったので
少し写真がある。ジム・トンプソンって人はシルクで成功してお金持ちになり、
そのお金でタイやカンボジアあたりの古美術を買い集めたようで、そういうのが
いっぱい飾られてる。
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石の仏像あり、木彫の壁掛けあり、セトモノありで、まぁたくさんあること。
下のセトモノに描かれた絵はチョンマゲを結った日本人らしい。
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・・と、写真を撮っていいのはこの辺まで。このあとゾロゾロと2階に行くと、
寝室とか食堂とかがあるんだけど、その辺はカメラはだめ。

ある仏像を見て「これってクメール風・・」と思ってたら、あとでツアーガイドさんが
「これはどこの仏像だと思いますか?カンボジアです」って説明する。東南アジアに
あちこち行ったおかげ?で少しわかるようになったのかな。少し嬉しい。

グループツアーが終わると、各自自由に庭を回れる(再度邸内には入れない)。
庭からでも多少は室内の様子がわかるので、そんな写真でガマンしていただこう。
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ジム・トンプソンがこの家を建てたのはおそらく1950年頃。
その頃には冷房なんてなかったから、バンコクでの生活はさぞ暑かっただろう。
この家も風通しがいいように作ってある。それでも暑いが。
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視覚的要素も大きい。庭のあちこちには水がめが用意されてる。水面には植物、
水中には小さな魚。アルハンブラ宮殿もそうだけど、「水が豊富にある家」って
人間の本能的な居心地良さを喚起するのかも。
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広くはないけど、いかにも南国風にみっしり植物が茂った庭も居心地がいい。
どの窓からも緑の葉っぱが見えて、気分的には涼しげ。それでも暑いが。
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てな感じで、風通しはもちろん、精神的涼しさを感じさせる効果のある家という
感じだったね。邸内はしっかりニスを塗った木の床で、最近のフローリングの床ほど
真っ平じゃないけど、ひんやりしてて、ハダシで歩くと気持ちよかった。

前にも書いたように、このジム・トンプソンハウスの近くにはコレといった
観光スポットがない。だから周遊効率が悪くてこれまで来なかったんだけど、
今日は「そのあと、コッチに行ってみっか・・」というちょっとした腹案があった。
それは、センセープ運河の水上バスに乗ることなのである。センセープ運河は
ジム・トンプソンハウスのすぐ裏手を流れてる。
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しかし水上バスの停留所がどこにあるのかは不明。例によって行き当たりバッタリ。
とりあえず、運河に沿ってアッチに歩いてみましょうかね・・。

 


by tohoiwanya | 2019-03-13 02:18 | 2018.08 タイ旅行 | Comments(2)
2019年 02月 06日

おのみち文学散歩

次回は「浄土寺いくぞ」と言っておきながら、予定を変更して文学散歩(笑)。
還暦になっても「不実な書き手」という性格だけは治らないようだ。
順序からいうとこっちが先になるんだよ、浄土寺より。

尾道には「おのみち文学の館」っていうのがあって、志賀直哉旧宅と共通入場券に
なってる(場所も近い)。文学の館は古~い民家を一種の「文学資料館」みたいな感じの
展示施設にしたもので、志賀直哉旧宅は文字通り彼がかつて住んだ家だ。となれば、
「ミンカの女」トホ妻が行きたがるのは当然。
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【志賀直哉旧宅】
こちらが志賀直哉旧宅。複数の部屋が共通の土間でつながってて、若き志賀直哉は
一番奥の部屋に住み、作品を書き、後の「暗夜行路」の構想を練ったとされる。

誰もいなかったところにトホ妻とイ課長が来たんで、ご年配の男性係員が張り切って
志賀直哉の若いころや尾道に住んだイキサツ、当時この部屋から何が見えたかまで
すごく熱心に説明してくれる。
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だが、ここでイ課長は大変な失態を犯してしまったのだ。
背中のリュックが柱にかかってた額縁に触れ、落として壊しちゃったんだよね。

ご年配の係員は「いやいや、いいです、お気になさらず」と言って、さらに熱の入った説明を
続けるんだけど、イ課長は申し訳なくてそれどころじゃない。彼の説明は主にトホ妻が拝聴し、
イ課長は主に床にしゃがんで壊れた額縁のワクを探してた。いやもうホント、ごめんなさい。

イ課長は志賀直哉って読んでないんだけど、この部屋から眺めた情景を描いた記述も
展示されてる。熱心な係員の男性は朗読つきの名調子で、志賀直哉の文体の素晴らしさを
説明してくれるけど、イ課長は「壊してゴメンナサイ」ってことで頭がいっぱいで・・(笑)。

最後に、志賀直哉が好きだった、イタリアの壁画の複製画を説明してくれた。
「これ、何だかわかりますか?」と聞かれたトホ妻が「これはポンペイの・・」と言うと
「おお!今までここに何百人も来たけど、ポンペイって言ったのアナタが初めて!すごい!」
係員の驚きぶりもスゴかった。ホントにすみませんでした。

【おのみち文学の館】
ここは特に林芙美子関係の展示が充実してることで知られる。
彼女の書斎なんかも再現されている。林芙美子ファンには必見の場所だろうけど、
イ課長は林芙美子も読んでない、すんません。
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林芙美子っていうと、森光子が長年演じた「放浪記」の舞台が有名だけど、そっちの方も
残念ながら見てない。ナンも知らねぇんじゃん、イ課長!バカモノ。しかしこの文句は
知ってるよ。これ、林芙美子の直筆かなぁ?
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林芙美子以外にも、尾道ゆかりの文学関係者の資料が展示されてるんだけど、その中に
いきなりデスラー総統を発見した時のイ課長のオドロキを想像してほしい。宇宙戦艦ヤマトの
ノベライズ版の執筆をしたのが尾道に縁の深い方らしい。へぇぇ~~。
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志賀直哉旧宅も、文学の館も、尾道の急斜面に作られてるから、南側の採光は良くて
眺めは素晴らしい。斜面の家だと、庭の広さもこのくらいしかとれないんだなぁ。
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この2軒を訪問したことで、ミンカの女・トホ妻の“民家欲”も一応満たされたようだ。
実のところ、このあたりで二人とも足にはもう相当キテた。しかし、どんなに足が
疲れようと、足腰勝負の尾道紀行はまだまだ続くのである。さぁ行くぞ。
次回こそ、浄土寺の予定ですから(笑)。

 


by tohoiwanya | 2019-02-06 00:02 | 国内出張・旅行 | Comments(4)
2018年 12月 07日

真間の手児奈 伝説の地

真間山弘法寺のあるあたりは、「真間の手児奈」伝説で有名な場所でもある。

そういう“地元伝説”があることは高校の頃から知ってた。しかしテコナって女に
まつわる話っていう程度の認識しかなくて、詳しいストーリーは今回初めて知った。
一応簡単にご紹介すると・・

昔、真間の地に井戸があり、近所の女たちがそこに水を汲みにきていた。
その一人が手児奈という女で、身なりは貧しいけどバツグンに美しかったもんだから
近隣の男たちがこぞって嫁にしようと争った。しかし誰かと結婚しちゃうと、他の全員を
フらなければならない。それを苦にした手児奈は海に入水自殺。あーあ。

Wikipediaでは手児奈は一度他国に嫁ぎ、子も生まれたけど、国同士の争いに巻き込まれ、
子供と共に真間に戻ってひっそり暮らしていた(で、毎日真間の井戸に水を汲みに行って・・
・・と、上の話に続くんだろう、きっと)ことになってる。

万葉集には手児奈にまつわる歌がいくつもあるらしい。
前回書いた真間山弘法寺も、行基って坊さんが手児奈の霊を弔うために作ったのが
起源だそうだから、737年には手児奈さんはもうとっくに死んでたわけだ
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真間の手児奈にまつわる場所は、前回書いた真間山の階段のすぐ近くにある。
そんな近くにそんなモノがあったことも、当時は存じませんでした。
 
はい、これが手児奈が水を汲みに来たという「手児奈の井」です。
いくら何でもこれが奈良時代そのままの井戸とはトーテー思えない。桶なんて新品(笑)。
でもそこはホレ、やっぱ歴史はロマンですよ。固いこと言うのはやめましょう。
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はい、これは手児奈霊神堂。要するに手児奈を祀ったお寺らしい。上の井戸から見て
通りを挟んだハス向かいくらいの位置関係。さすがは手児奈伝説というべきか、イ課長が
滞在してたごく短い間だけでも何人もの人が参拝に来てた。
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ここは本堂の中に入れるらしい。靴を脱いで入ると、お坊さんが「どうぞお参りを」って
ロウソクに火をつけてくれたから、お線香をあげさせていただきました。
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「写真を撮ってもよろしいですか?」って聞いたら「ご本尊はちょっとアレですが、
天井なんかはどうぞ」って言ってくれた。だから上の写真もご本尊は写らないように
しているわけ。さて、天井っていうのは?
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うはぁーーー!!こりゃすごく古い。歴史的価値ありそうだ。
鳥とか動物とか、全部生き物の絵で格子天井が覆われてる。ものすごい数だよ。
これは一見の価値があるよ。手児奈霊神堂、なかなかすごいじゃん。
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真間山からすぐ近くの高校に3年間通い、「真間の手児奈」も名前だけは知ってたけど
高校生当時はそれにちなんだ場所を見てみようなんて殊勝な了見はゼロ。あの頃は
食い物と週刊誌のヌードグラビア以外のことには関心がなかったんだと思われる(笑)。

「かつて通学した地にあった伝説」にまつわる旧跡を、このトシになって初めて
散歩してみた、初冬の昼下がりというわけでございました。

 


by tohoiwanya | 2018-12-07 00:07 | 日本での私生活 | Comments(0)